ツイッターを本格的にやりはじめたのが昨年の1月。結構使ってまして、最近、この6年間のブログの発言数をツイッターの発言数が上回ってしまいました。まあ、同系列には比べられませんが。
ブログについては、情報発信の色彩が強く、書くことで自分を律する側面が強かったのですが、ツィッターは書くのを楽しむことと、世の中の出来事の反応を肌で感じることの価値があるような気がして重宝しておりました。
しかしこのツィッターは、その原点である「つぶやき」のメディアから、震災以降、災害時のコミュニケーション手段として格上げされたからか、冗談など言ってられない、少数意見など言えないムードに一時期なっていたような気がします。仕方ないといえば仕方ないのですが。
私は昔から真正面からの議論好きだったのですが、48歳という年齢がそうさせるのか、今回ばかりは寛容になることが大事だとツイッターのやりとりを見てつくづく思わされました。どちらかというと私は学級委員タイプだったと思いますが、今回ツイッターを見ていて徐々に宗旨替えできそうです。
そこへ、このラテン語の格言「過度に賢明になるな」と出会いました。それぞれの本能のままでいいんですよね。違っていいんです。そう考えるようになりました。
(写真:授業参観で行った母校でもある福岡中学校)