きまじめチキン日記

岩手県二戸市 昭和38年生 チキン産業 経営者 十文字保雄

カテゴリ:  私のルーツ

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 昨日、実家に歩いて行ったんですが、その帰り、このブログネタとして思いついて、もう40年以上前に通った通学路を歩いてみました。

 この写真の背後に私の生家があります。左に行った先に2階の窓が小さく見えるのが今の実家です。カーブミラーの根元が井戸で、手でギコギコ漕いで美味しい水を飲んだものです。

 小学校、中学校に行くには右に降りていきます。

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 左のS家には昔、乳牛がいて生温かい牛乳を飲んだものです。

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 この右側に見える手前の建物は昔無くて、奥の蔵がそびえ立っていて、鬼ごっこをする格好の場所でした。

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 どんどん下がっていくと正面に急カーブが。

 小学生の時、冬はこの辺りはミニスキーを履いて登校したことがありましたが、間違えば正面の白鳥川への崖に落ちる可能性があって少し怖かったです。

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 カーブを曲がると右が崖に。下り坂が続きます。今は左側が少し拡幅になってますから、クルマで上り下りかち合ってもだいぶいいと思います。

 冬は、前から父のクルマで登ってきて上がれないことがよくありました。当時はFRのスカイライン、セドリック、クラウンと乗り継いだんですよね。必ずトランクに砂袋を積んでましたけど、何度か挑戦して上がれてやれやれということがありました。

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 穴牛橋が見えてきました。昭和54年完成とありました。私が通ってた頃はもっとボロボロでした。

 ちなみに、地理院地図で調べますと、我が家は標高136mで、この辺りは98m。そして福岡中学校は135m、福岡小学校は120mです。

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 少し戻ったところの左側の畑でよくスキーしたものです。当時は長靴をバンドで締めてやってましたね。

 ジャンプ台が作ってあって、たまには勇気を振り絞ってやったものですが、いつも撃沈でした(笑)。

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 橋を渡って上り坂なんですが、左に登っていって、V字ターンして上のガードレールが見えるところまで行くのを近道して、正面のあぜ道を登っていったものです。雨でぬかると大変なことになるのでした。


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 そしてこの道を通って‥

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 県道24号線を斜めに横切ります。

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 この狭い道を入って‥

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 住宅地を通っていきます。

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 この道の左の石段を上がっていくと神社があります。

 今年に入ってからかな‥、夢にこの辺りの風景が出てきました。久しぶりに確認できました。

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 中学校はすぐそこ。

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 左に曲がると数年前に新築になった福岡中学校が見えてきました。バレーボール部のコートがあるのは外でした。私たちの汗が染み付いた土の上に今は校舎があります。

 googleマップで調べたら家から中学校まで、距離としてはたった1kmでした。15分くらいですか。

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 中学校の直ぐそばの友人宅によく寄ったものです。昨日も久しぶりに‥。

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 左にちらっと見えるのが二戸市役所で、右に見えるのが福岡小学校です。

 ここは国体道路と言って、私が小学1年生のときに岩手国体があって、天皇陛下がおいでになって旗を振りに動員された記憶があります。

 さて、中学校まではこのコースでしたが、小学校までは別なコースだったと思います。googleマップで調べたら1.2km! えーっ、たったそれくらいですか。30分くらいかかった記憶が‥。

 下って上るのが大変だったんですね。でもそれで鍛えられて良かったと今では思います。

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 コロナ禍でブログネタに貧しますね。家の本棚から古い本を紹介しようと思ったのですが、意外性のあるものを紹介しようかな。

 「永遠のオードリー・ヘップバーン」は1993年の本。女性誌SPURの息がかかった編集みたいです。そういえばその頃なぜか、SPURを年間購読してたりしました。

 写真改めて見てると、やっぱり時代を超えてオードリーは魅力的ですよね。眉が今じゃ考えられないくらい太めですが、それがかえって目ヂカラとなって訴えてくる。

 これを読んで、オードリーでさえも鼻の穴の大きさにコンプレックスを抱えていたことを知り、晩年はユニセフの活動に身を投じていたことを知り、素敵な人柄を勝手に想像して理想に昇華してましたね。

 もうひとつの「Top Model No.1 トップモデル、クローディアの魅力」は1994年の本で、ELLEの別冊としてスタートしたのですが、その創刊号ですね。

 その当時のファッション界のモデルの中で最も惹かれたのがクローディア・シーファーでした。その時代の厳しいモデル間の競争の中で、プライベートはどんな素顔なんだろうと興味津々で目を通した記憶があります。

 ちなみに、クローディアは今49歳。オードリーと同じように国際ユニセフ大使も務めているんですね。ネットで写真がたくさん検索できて、いい復習になりました(笑)。

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 近くのスーパーで買ってあった冷凍の鶏ガラ。岩手県産でしたが当社のものでなくO社さんのもの。時間があったので解凍してネットを参考にしてスープをとってみました。

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 サラダチキンメーカーでサラダチキンを作るときと同じ材料です。というか、サラダチキンができたときの残り汁が確かに美味しいんです。

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 アクを取りながら弱火で煮込んで、お昼になってお腹が空いたのでちょっと早いけど1時間でおしまい。

 スープには塩コショウで味をつけて飲みましたが、うーん、やっぱり煮込みが足りなかったかな。

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 そしてスープを取ったあとの鶏ガラを食べてみました。少し硬かったのは煮過ぎなんでしょう。

 ところで、子供の頃、この鶏ガラをよく食べたものです。醤油味でとても美味しかった記憶があります。

 家で鶏を飼ってたから鶏肉ばかり食べていたかというと、あまり‥。とにかく肉はご馳走で、タンパク源としては魚介類がほとんどでした。そういう地域だったんですね。

 ですから、この鶏ガラに僅かばかりの残った肉を余す所無く食べたものです。

 こういうことで、もったいない精神が自分の中に根付いたかもしれません。我が子たちの世代では考えられないでしょうね。


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 太陽光で動く電波時計の薄いシチズンをメインにして以来、仕事では他の手持ちの腕時計は殆ど使ってないです。

 しまっておいたそれらの時計が妙に気になり、工具を用意して電池交換をしてみました。

 そしたら動くものと動かないものがありました。動くんならせっかくだから使ってみようかと、今日は20年くらい前に使っていた24時間表示の腕時計をして出勤。

 いい感じの安っぽさと、塗装のハゲ具合と、軽さでなかなかいいです。

 改めて見ると、24時間時計は昼が下になることで混乱させてくれることもありますし、1時間がとても少なく、より客観的にマクロの視点で24時間を見れるような気がします。

 ただユーザーである私の年齢が上がったので、1時間間違えることもあったりして(笑)。

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 工場は30日まで稼働ですが、本社は本日が仕事納め。しかし、本社の大掃除は昨日に行いました。

 そのときに、図書室のVHSテープのケースが朽ち果ててボロボロとこぼれているのやら剥がれているのを発見。そういえばVHSテープの背に貼ってあるタイトルも剥がれてたりして見た目が悪い。

 来年は創業70周年を迎えるわけだし、いい機会だから古いVHSテープなどの残っているのをDVDとかにダビングして捨ててしまおうということで、今日は会長室に陣取ってあれこれやりました。

 VHSですからダビングするのに等時間必要なわけです。懐かしさもあるので、結構見入ってしまいましたね。

 特に、1989年ブラジルで総合商社トーメンさん(現:豊田通商)と始めたFrango Menu社の発足のパーティーの様子等を収めたビデオに、当時の社長である健助会長が日本語で解説を加えたビデオが懐かしかったです。

 おそらく健助会長が思い立って作ったものでしょう。日本の社員の皆さんに見てもらうためにわざわざそうしたのでしょうね。

 思えば当時の健助会長の年に私がなってしまったわけなので、リアルに比べられるのがなんともくすぐったかったりして。

 VHSのテープが悪くなるかもということで、大事なものは最低2本ずつ保管してましたが、中身の方はほぼ大丈夫そうでした。

 これらの動画は最終的にはYouTubeにアップして、ベテラン社員には懐かしがってもらったり、若い人たちには当社の歴史を実感していただければと思っています。

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 久しく使ってない地元の言葉に「すける」があります。

 「手伝う」の意味で使います。子供の頃は、「手伝ってちょうだい」の意味で、「すけでけろ」と使われることが多かったように思います。

 漢字にすれば、「助でけろ」だったんでしょうね。でも「助けてちょうだい」よりは意味が軽いような。

 私には、この「すけでけろ」は祖母の声で記憶に残っています。

 そして、祖母が付けたかどうか分かりませんが、父の名前、健助に助がはいっています。

 おそらく「人を助ける人になってほしい」だったと思いますが、逆に父はたくさんの人にすけでもらって、いま当社があります。

 それなのに、父がまだ社長だった頃は、名前を健輔(専務が幸輔だった)とか健介と間違われることがよくあって、むしろそっちだったらいいのに、と義理人情を敬遠してた私は思ったものでした。

 次男に、ひねりを入れて陽亮(ようすけ)と名付けたのもその辺からかな。

 でも、今は自分の想いを、すけでもらって会社が成り立っているんだと思っていますから、我ながら変わったものです。

(写真:10月25日の種鶏農場長大会)

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 先週、タナベ経営ビジネスモデルイノベーション研究会一行様向けに講演した際に、レジュメとして当社のビジネスモデル等を説明するのにマンダラート形式のペーパーを1枚配布させていただきました。

 そのことで、「マンダラートを知ったきっかけは何でしたか?」と聞かれたのですが、その場でちゃんと答えれなかったので、自宅の書棚から拾ってみました。確か、今泉‥。

 そう、今泉浩晃さんという方がオリジナルで開発したものでした。Wikipediaでは、1987年に開発されたとあります。

 私が手にしたのは、1988年の「生き方をデザインする―軽やかな自己実現のための方法論」、1990年の「自分さがしの大冒険―あなた色のストーリー」、1992年の「時間をデザインする―“自分らしく生きる!”思考と行動の技術」の3冊でした。私の年齢にして25歳から29歳で、まさしく「自分探し」をしている年頃だったんでしょうね。

 中でも「自分探しの大冒険」は書き込み式になってて、当時28歳の私の頭の中が覗けます。恥ずかしいところもたくさんありますが、ここだけご覧に入れましょうか。そういえば当時大好きな筆記用具で書いてます。

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 大谷翔平の夢を叶える「目標達成シート」で有名になったこの手法は、今泉浩晃氏が開発したマンダラートであると声を大にして言いたいですね。他にも「マンダラチャート」と言われていたりするようです。

 私は使ったことがないですが、スマホ向けアプリでも出ているようですのでそこから入っていってもいいかと思います。

 しかし、せっかくならこの手法のエッセンスを学んでからのほうがより有効に使えると思いますので、今泉浩晃氏の著作を手に入れて読んでみてはいかがでしょうか。

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 周囲の意見を素直に聞いて、身の施し方を決めることってとても大事なことだと今は思います。

 でも、それが決してできなかった半生でした。自分のことは自分で決める!と肩に力が入っていたんでしょうね。

 後悔1、それは小学校6年生の時。担任の先生が読売新聞主催の読書感想文全国コンテストの常連で最高賞を取らせたことのある先生で、私をその年に誘ってくれたのですが、思いっきり固辞してしまったこと。

 間違って入賞でもしていたら、当時何事にも自信がない私がどれだけ自信を持てたでしょうか。でも、読書感想文の文字数を埋めるのが苦痛だった私には、考えられない先生の申し出だったのです。

 後悔2、それは高校1年生の時、文化祭のクラス(男子のみ)の出し物で、8ミリで映画を作ろうというときに、主役になれと周囲に言われたのに、なぜか固辞してしまったこと。

 思春期の複雑な思いがあったのでしょうね。これ受けてて、自分が画面に映る映画を見れたら、行く道を変えてたのかもしれませんね。ただ、代わりの主役が頑張ったにもかかわらず、機械的な故障で映画は幻に終わりましたが。

 後悔3、それは37歳位の時、日本青年会議所の農畜産部会の部会長になれと周囲に言われた時。会社では副社長だった頃だから、仕事の集中したいという思いもあったからかな。

 その際は、地元の仲間に専務になってもらえたら部会長やるという条件を付けたのでしたが、その仲間が受けてくれなかったので、そのまま逃げてしまったのでした。

 頑固さが災いして、こういう人生を面白くするチャンスを逃してしまっているのが私でしょうか。我が子達にはそうならないでほしいものですし、身近な人達にもそう言いたいですね。

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 暑いですね!

 先週までの鶏の熱死はかなり少なくて生育が良すぎるくらいでしたが、今週どうなってるんでしょうか?

 私は今週リフレッシュ休暇なので知りません。そうでなくても今日は会社が休み。土曜日でなく水曜日時々休みになりますが、その本日暑いです。農場指導員の皆さん、ちゃんと休めてますでしょうか?‥なんて心配してたらリフレッシュではないですね。いかん、いかん。

 さて、リフレッシュ休暇を今週取ると決めた1ヶ月ほど前、どこかに出かけようかとも思いました。行ったことのないフィンランド、スウェーデンはどうかなとか、久しぶりにイギリス行ってドライブ旅行してみたいなとか‥。しかし、体調を考慮してやめました。

 その代わりと言ってはなんですが、メルカリで「英国カントリーサイド庭の美しいB&Bに泊まる旅」というムック本を手に入れてみました。1999年の本です。

 私がイギリスに半年お世話になったのは24歳の頃ですから、1987年ですね。ホテルにも泊まりましたが、B&Bもよく使いました。ノリッジのパークファームホテルに一番たくさん泊まりましたが、初めてで小さい宿だとワクワクしながら運転して行ったものです。

 そういうところはオーナーの趣味でインテリアやガーデンをきれいにして、それを鑑賞ついでに泊まって食事をとるみたいなイメージもありましたね。今なら、当時より目が肥えてるので、より楽しめると思います。行きたいな〜。

 さて、メルカリのIDは以前に取得済みでしたが、しばらく使ってませんでした。しかし、キャンペーンのインセンティブを貰って使い始めたら、やっぱり素晴らしいサービスだと感心してます。本やCDの売り買いが楽しいですね。

 そういえば小学校の頃から私、こういう物の売り買いが好きでした。父親もそうだったみたいで、商売人の血ですかね。

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 日曜日から始まった岩手日報の私の経営についての連載。

 第2回の月曜日は、主に入社の経緯から20代の頃についてでした。ちょうどいま長男が大学4年生で進路を決めようとしている時期なので、ここに改めて書いておこうかな。

 父は知人からの助言で、経営後継者は法学部を学ぶべきと信じていたようで、理系に偏った頭の私は高校3年でしょうがなく文系を選択。現役で受かった國學院大学法学部法律学科に4年間通いました。

 そして、一番お世話になっていた商社さんに就職する予定でしたが、会社が初めて赤字となったことで父はすぐに自社に戻ることを指示。

 入社したはいいけど自社で目に入るものにいちいち疑問ばかり感じたので、2年目に海外研修をすることに。これがとても価値あるものになったので、そのまま自社の常識に染まらなくてよかったなと思ったものです。

 時は経ち、立場が変わって息子たちの進路に口を挟む立場に。学力をつけるほうには少しは導きましたが、自分のこうした反省から、あとは自分で決めてやるように言ってあります。

 地元ではよくある話ですが、子どもたちには若い時期は好きな会社に務めさせて、30前後で結婚とか、親が弱ってきたとかで田舎に帰るか否かを選択させるということが、ごく自然で正解のような導き方のように思えてきています。

 ただ、おじいちゃん(父)がそれを阻害しようとするのが困ったものですが(笑)。

 さて、もし、私がフリーな選択肢を与えられていたらどうしたんだろうと改めて今考えると、デザインの道だったのかなと思います。

 クルマのデザイン、建物の設計、工業製品のデザイン‥といった類でしょうか。その道だったら56歳でどうなっていたか? 結構自信はあります。

 でも、今の経営者の道のほうが、自分の力をマルチに引き出せているような気はします。人生にレバタラはないですので、戯言はここに書いて忘れることにしましょう。

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 本日の岩手日報の一面と、その裏の二面に「あの日の決断 岩手の経営者たち」の連載として、私を取り上げていただきました。あと4回あるそうです。

 担当記者のSさんの私への取材は4回で9時間以上。他に健助会長へのインタビュー、佐藤専務との数字などの確認、久慈工場の見学、6月30日の感謝デーと取材を重ねたようですので、どうそれが結実するのか興味津々。

 初回は約2倍の文字数ということもあり、読み応えありました。私に触れつつ、当社や当業界について少しでも関心を持っていただく助けになれば幸いです。

 記事中の写真は、最後の最後にリクエストで本社の図書室で撮影したものです。稲盛和夫さん、小山昇さんの書籍を前に撮影を試みたのですが、小さすぎて写りませんでした(笑)。それにしても手が不自然。こういうの、慣れてないもので。

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 評論家の竹村健一さんが89歳で亡くなったんですね。

 高校時代に、友人のJが面白いというので借りて読んだらほんとに面白くて、ファンになって何冊か買って読んだのが自宅の書棚に残ってました。これらは昭和50年代の本です。

 口述筆記は今では当たり前でしょうけど、確か堂々とそのことを言った最初の頃の人ではないでしょうか。だからかとても読みやすかった。

 本に加えテレビでは「ルックルックこんにちは」でコメンテーターをやってて、パイプを加えて遠慮なく正論を吐く姿が、とても印象的でした。

 テレビからの引退も確か早かったですよね。活躍していた舞台への執着が全然なく、早々に第2の人生モードになって自分の好きなことをエンジョイするようになったところがまた素敵でした。

 ご冥福をお祈りします。

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 6月22日に開催されたカシオペアアカデミーの同窓会で配布されたのが、このDVDです。

 アカデミー会員であり、ビデオ制作を生業とするBE-POPの浪岡洋一さんが自ら撮影した28年前からの素材をもとに、昨年の同窓会での歳を重ねたメンバーの姿を重ね合わせて、味わい深い内容になっていました。洋一さん、編集・制作ありがとうございました。

 所々に私も写っていましたが、幸か不幸か昔のアナログ画質ですので雰囲気だけ感じられるかな。

 手探りだった広域でのまちづくり団体の立ち上げ。今の二戸市民文士劇とは比べ物にならないほど手作り感覚満載だった劇団カシオペア座で10公演もやったこと。今も続く古い映画館「萬代館」を使ったカシオペア映画祭。ほかに熱気球、川下り、カシオペアラリーなど、合計したら100近いイベント数だったのではないでしょうか。

 私は立ち上げに関わって以降は、実家の片隅を事務所として貸していたことくらいで、ほぼ本業に戻ってたので、初めて見るイベントの映像も多かったです。何回目かのカシオペアラリーの選手宣誓を参加者として私がやってたほどです。

 ちなみに、カシオペアアカデミーのマークは、カシオペア連邦のマーク募集の副産物で、次点だったものを許可を得て採用させていただいたのでした。

 そしてこのアカデミーのロゴも「カシオペア連邦」のロゴと同様、私がラフスケッチして業者さんに作らせたものです。後にあれこれ楽しいイベントを繰り広げたこととマッチしてて、いい仕事をしたと自分でも褒めてやりたいですね。

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 昨年に続いてカシオペアアカデミーの同窓会が、昨年より少なめの39名の参加のもと二戸パークホテルでありました。

 20〜30年ほど前になりますが、この団体名主催でやったイベントはどれくらいあるのでしょう。分科会みたいに分かれて演劇は10回やってますし、延べ30や40はあるのでは。

 青年会議所とは別の緩い組織だったカシオペアアカデミーのイベントをやっていて当時思ったのは、「イベントは短期集中で、結果がすぐ出て、達成感が味わえて、最高に楽しい仕掛け」だなということ。ちょっとズルいのでは?とまで思ったものでした。

 対する仕事には終わりはなく、達成感もなかなか味わえない。しかし、仕事には金銭報酬があって、イベントのボランティアには金銭報酬がない。でも、ボランティアで自分の時間を使ってしまっても、それを上回る喜びが得られるという確信を、この会の最初の頃に得たのでした。

 しかも、こうして後に、社会的な地位とか関係なしに仲間と思える人ができる。加えて、まちの活性化にもなるし、自分の成長にもつながるし、まさにWin-Win。

 これってまさにいい選択であり投資だったのだなと、改めて思った次第です。

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 昨晩はお客様であるN社さんのご厚意で、家族ともども東京ドームで、横浜DeNA対巨人を観てきました。

 試合は巨人が6点先行して、横浜が追いかける展開。送りバントでワンアウト二・三塁と追い付くチャンスができたのに、その後の凡打で横浜は追い付けませんでした。僅差でした。

 ちなみに、この日は巨人の丸デーということで、支給されたオレンジ色のタオルを首にかけて観戦。でも、気がつくと横浜追い付かないかな〜という気持ちになってました。あれ?

 いや、子供のころは巨人ファンでしたよ。テレビでは巨人戦しか中継しない時代でしたからね。新聞も読売新聞でしたし。

 でも、家族で同じテレビを見ていても、会長(父)はアンチ巨人。口には出さなかったですけど、ややこしいタイプなのかなと思ってました。

 あまり多くを語らない人でしたので、周囲もそう見てたのではないかな(笑)。

 しかし、何年か前に、岩手出身の選手が阪神にいて、その応援の気持ちからそうなっていったと聞きました。うーん、それは失礼しました。

 そう言えば、父は石切所中学校時代は、野球部でキャッチャーをやっていたのでした。

 体調不良で入院さえしなければ、中学卒業すぐ鶏を飼わず、高校に入って野球に没頭してたのかもしれません。

 その父と子供の頃はよくキャッチボールだけはしたものです。

 周囲に遅れて五年生から少年野球チームに入りましたが、気後れしてしまって、追い付けないと悟り、中学ではバレーボールを選んだのでした。

 息子たちはアイスホッケーをやってますが、長男だけは野球も相当好きなようで、小学生のときに札幌ドームで始球式をやったこともあり、日本ハムファイターズの大ファンです。

 もしかしたら、アイスホッケーでも、サッカーでもなく、野球に導けば良かったのかなという思いは少し残っています。

 そういう意味では私もあまり王道を選ばないタイプなのかな。

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 日本の小学校はどちらかというと女性的で、中学校は男性的ですよね。言い換えると、小学校が母性愛に溢れてて、中学校が男臭さに支配されるといいますか、よく出来ていると思います。

 今夜は、カシオペアJCシニアクラブの会合に久しぶりに出席して、懐かしい地元のお仲間と談笑してきましたが、中学校の応援団の話で盛り上がりました。

 私の2つ上の現二戸商工会会長である生内先輩が応援団長だった二戸市立福岡中学校に入学したときのカルチャーショックは凄かったと同期の友人H君と切り込んだら、その下の小学6年生だったU君も既にその異様さを感じ取っていたといいます。

 入学すると学業よりすぐに第一、第二応援歌を覚えること。今で言う限界発声ができるように罵声を浴びせられ鍛えられます。まあ、今の時代、こんなことしたら即マスコミに袋叩きにされるでしょうね。

 容赦ない熱血指導ぶりにも驚きましたが、団長の手振りのクオーツ時計のようなシャープさには畏敬の念を覚えたものです。

 気がつくと隣りに座っていた、H君もU君もその応援団のリーダーになっていたのでした。しかし私は体育会系のノリはまったくない家庭で育ちましたので、全く縁遠い世界でしたっけ。

 その二戸市立福岡中学校の応援団の基質をそのまま受け継ぐ、というかすべてが全く一緒である岩手県立福岡高校は、地元であれば普通に喜んで入学する学校なんですが、私には合わないと思い自由な気質と言われる盛岡第三高校を選んだのでした。

 その後もどちらかと言うと貧血で、低血圧で、胃潰瘍で、という虚弱体質路線を歩んできましたので、こういう強く逞しくみたいなのはやっぱり縁のない世界だったかな。

 でも、社長になって、体育会系のこういうノリって大事だなと思うようになっています。出来なかったから、あこがれも加わっているような‥。

(写真:生内さんが現役JCメンバーを前に、往年の応援団長ぶりを披露してました)

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 今日で平成はお仕舞い。

 私にとって平成元年はといいますと、1月14日から「第9回岩手青年の船」に乗って、岩手県宮古港→那覇港→マニラ→香港→宮古港という経路での17日間の旅をしたことから始まりました。

 社会人になって当社に入社したのがその3年前の昭和61年4月。1年目は社内各部門の研修を半年したあと、後半は埼玉県戸田市のお客様の会社でOJT。2年目はイギリスで延べ7ヶ月の同業者研修。3年目は、ワクチンでお世話になっていた岐阜のゲン・コーポレーションさんで5ヶ月研修。

 その後、4年目の平成元年4月から当社にまともに勤務して、経営企画室長というほぼ無任の仕事を始めたのでしたっけ。

 ですから、振り返ってみると、私の本格的な当社での仕事期間がまるまる平成に該当すると言えますね。

 2期連続赤字を平取締役(子会社の社長ではあった)のときに2回経験。そして社長になってからも2期連続赤字を1度経験。

 あまりこの仕事に展望を見いだせないままに平成14年社長になったのですが、徐々に時代がチキンの味方をするようになります。

 そして東日本大震災があって、その後は環境変化により大きな投資を3つ決断して今に至ってます。おかげで農場建設も並行して進めており、羽数拡大に邁進中。振り返れば、時代の変化がそうさせたとしか言いようがないです。

 では、令和という時代は私にとってどうなるんでしょうか? 後々元号が変わることが変化を象徴することになるのでしょうか? ‥想像つきませんね。未来がわからないから無我夢中でやる。それでいいと思ってます。

 ただ、気がかりなのは、59歳になられる新天皇とほぼ同世代の56歳なので、その次の元号の時代に生きて届くかどうか‥。

 逆に言えば、いよいよ自分の実質最後の元号である令和の時代に頭を突っ込むわけです。その覚悟だけは出来て、令和の初日を迎えられそうです。

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 久慈の「ZEN」に行った話の続きです。

 「マイナーなレコードもありますよ。試しに言ってみてください」と店主の膳棚さんが言うので、秘かに好きだったアイドルの名前を言ってみました。「じゃあ、五十嵐夕紀!」

 曲に恵まれなくて全く売れなかったアイドルなので、あるわけないよな〜とつぶやいてたら、「ありました」‥ワオ!

 そして「ワル!」というシングルをかけてくれました。うーん、これは売れないよな。都倉俊一さんの曲なんだけど、山口百恵のプレイバックPart2のノリで作ったのかな。でも、私にはこのジャケットだけでも価値あります。

 他に好きだったアイドルとしては、河合奈保子。こっちはメジャーですので、棚にたくさん並んでまして、そこから竹内まりや作の名曲「けんかをやめて」をセレクト。

 それから、壁にピンどめで飾られてた中で、懐かしの「裕子と弥生」を発見。確か、岩手出身。「父さん」はノリの良いアレンジでなかなかの佳曲だと記憶してました。これはほしい。

 更に、新沼謙治のデビュー曲「おもいで岬」と次のシングル「嫁に来ないか」の2枚をセレクト。CDで持ってますけど、やっぱりレコードで聞いてみたくて。

 5枚で2000円にサービスしていただき、持ち帰って手元にあった新品のビニール袋に入れ替え。40年ほど前の紙の匂いがなんとも言えません。

 そして、一通りレコードプレーヤーで聞いてみました。さすがにパチパチが多くて、音が潰れ気味なのもある。でもこんなものかな。アナログ盤は使えば使うほど劣化していくという事実を久しぶりに目の当たりにしたかんじ。店から買って帰るときには、店主さんは念入りにきれいにしてくれたのですが。

 時間があれば、木工ボンドを盤面に塗って乾かして剥がすという懐かしい作業をやってみようかな。

 ちなみにネットで調べたら、五十嵐夕紀さんはソシアルダンスのインストラクター、裕子と弥生のお二人は揃ってカラオケの先生をしているのだそうです。お元気そうで何よりです。

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 昨日は株式会社十文字丸善スープの新工場安全祈願祭を開催しました。

 応援いただいた皆様に出席いただき、最高の天気のもと厳かに開催できました。また、その後の祝賀会は昼ということでほぼノンアルコールでしたが、和やかな時間となりホッとしております。

 さて、スピーチでも話したのですが、平成4〜5年に輸入品の台頭で当社に万が一のことがあったら、スープが好きだからそれを自分でやってみようかな、と頭に浮かんだのをこの日思い出したのでした。ラーメンを始めスープがすごく好きだったんですね。

 その危機を乗り越え、スープ好きの私が企画して、平成22年には創立50周年記念に菜彩鶏チキンスープの缶を作って、社員はじめ周囲に配ったのでした。

 そして予定通りに進むとすれば、令和2年7月にスープ工場の稼働となるはずです。

 考えてみれば、ここのところ一連の私の判断のように見られる平成28年のバイオマス発電所は健助会長が調査を重ねた案件ですし、平成29年の久慈工場増設は旧工場の延長線上のものです。

 しかしスープ工場は、初めて創業者の健助会長の導いたところとは違う私オリジナルの事業とも言えます。逆に社長になってから止めた事業は数あるんですがね。

 そういう意味でも、ちゃんと実績を残したい事業と自分に気合を入れています。

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 堺屋太一さんが亡くなりました。友人からの「十文字さん、堺屋太一さんお好きでしたよね?柔と剛を併せ持つ知の巨人でしたね!」というLINEのメッセージで知りました。

 私にとっては竹村健一の後に大ファンになった作家さん。私の本棚には「明日を読む」「「次」はこうなる」「未来への助走―「あるべき姿の日本」を求めて」の3冊がありました。

 もう20年も前の本なのであまり覚えてないですが、赤線が引いてあったところを読み返し、少し蘇ってきました。

 首都移転論を強力に牽引したのが堺屋太一さんでした。東北も候補になってたこともあってか、私も大賛成でしたね。

 東京への一極集中の弊害が目立って言われてましたし、バブルの後の閉塞状態を打開するには大胆なことをするしか無いと私も信じてましたが、その後国会での議論も低調になっていったんでしたっけ。

 風貌からして、現代に生きる摂政か関白じゃないかと思ってましたので、政治家を超えて権力を握って日本を変えて欲しいと切に願ったのですが、経済企画庁長官で終わってしまって残念です。

 没後、堺屋太一さんの思想が再評価され、受け継ぐ人が出てくることを期待したいですね。合掌。

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 盛岡で一人暮らしをしていた高校2年の頃に、友人がすごくいいと言って貸してくれたLPレコードがこの大貫妙子の「MIGNONNE」でした。

 当時はカーペンターズ、アース・ウインド&ファイヤ、ユーミンとかメジャーどころを聴いてて満足してたのに、このLPを預かって、何これ?という感じでしたが、カセットテープに録音して何度か聴いてたら、妙にいいんですよね。

 その後、すっかり大貫妙子のファンに。世間での評価というか、ヒットした曲は別にあるのだけど、このアルバムの気だるい雰囲気がたまらなく好きですね。最近再びヘビロテしてるんですが、やっぱりいいんだなあ。

 貸してくれたのは同年生まれで1年遅れて入学してきた、ちょいワルのK。このアルバムはその頃の楽しい思い出を蘇らせてもくれる1枚でもあります。

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 数えたら、このブログを始めて13年8ヶ月、記事数は昨日までで3435となっています。

 社長室の書棚に懐かしい本が残ってました。「できる社長のブログ術」です。

 このブログを始めたのが2005年3月30日で、この本の初版は同年の1月ですから、まさしくこれを読んで始めたんでしょうね。

 表紙の織り込んであるところにこう書かれています。

 「社長の日常を見てみたい」「普段は何を考えているんだろう」
 「やっぱりちょっと変わった人たちなのかな」‥始めは興味本位で構いません。
 これを読み終えたとき、彼らがなぜその地位を確立できたのかが
 はっきりと分かるでしょう。あなたは今、”成功者”への一歩を踏み出したのです。


 こういう言葉を真に受けて始めたんでしょうね(笑)。でも私にしては珍しく、この本にはマーカー線が引かれていないのはどうしたことでしょう。

 楽しんでやってるのは間違いないです。写真も文章書くのも好きですし。

 でもそれ以上に、次世代に過去を振り返る便利な道具として残せるんじゃないかという思いも原動力になっていますので、毎日の読者数への関心はほどほどにしてます。

 などと言いながら、やはり読んでくれる人がいないと成り立たないのがブログ。皆様に感謝です。

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 「江副浩正」を読みました。リクルート創業者であり、リクルート事件で13年もの長期に渡る裁判で戦った江副さんの生涯を描いた、元部下2人によるノンフィクション作品。読み応えありました。

 江副さん‥。リクルート社内ではさん付けで呼ぶので、関係されている方々から決まって「江副さん」と口に出るし、それが周囲に広まって私でも「江副さん」ってこれまでの人生で何度も言ったような気がします。会ったことはないですが。

 それでも、リクルートとの縁は結構ありました。

 大学4年の卒業式前後に、池袋のリクルートの孫会社で1日のアルバイト。ポスティングする仕事でしたが、ノルマの件数が多くて時間までに帰れなくて、ノルマを果たして1〜2時間過ぎて要領の悪さを反省しながら帰ったら、「君だけがノルマ達成した」と褒められて、入社を誘われたこと。父の会社に決まっているので、と断りましたが、いま考えると道草しておけばよかった。

 そして岩手に帰るとバブルの頃なので、リクルートが経営する安比高原スキー場が最盛期なわけで、よく行きました。ゴルフを始めると系列の安比高原ゴルフクラブやメイプルカントリーに行くわけですが、「昨日江副さんが来てプレーしてた」とか「さだまさしと一緒だった」とかキャディさんからよく聞いたものです。

 同様にリクルート傘下になっていた盛岡グランドホテルには高校の同級生が入社していて、同級会などの集まりでよく使いましたし、気がつけばグランドホテル関係の友人がどんどん増えていきました。やっぱり相性が合ったのでしょうか。それにしても、彼らの江副さんや高塚さんへの敬愛の情は揺るぎないものがあり、羨ましく思えたものです。

 そして34歳誕生日直前で結婚式を挙げたときの会場は、盛岡グランドホテルでした。ちなみに人前結婚式のハシリで、後のホテルのパンフレットに写真が使われたはずです。

 上記の岩手のホテルやリゾート事業は、江副さんの懐刀である高塚猛さんが仕切っていました。ダイエーホークスの球団社長になる前から有名になってまして、私は著書をほとんど読んで尊敬してましたが、直接接したのは某金融機関主催の麻雀大会だったなあ。しかし、この本には出てこないのが残念。

 異業種交流会で盛岡に月2回出かけていた頃には、小倉義昭さんという安比高原のリゾート開発で江副さんの外部ブレーンとして活躍していた方がいらしてて、交流会の主宰者が「十文字さん、小倉さんと親しくしたらいいよ」と紹介いただいて、盛岡市内の職場を訪ねて話を伺ったことがありました。

 それから、37歳で社長になってから、都内のタクシー広告で新卒採用の手ほどきをしてくれる会社「ワイキューブ」を知り、連絡を取り訪問したら、リクルートを脱サラして作った安田佳生社長の会社でした。ありがたいほど教えていただいたのですが、この会社は残念ながらその後倒産。

 それと前後して知ったのが「リンク&モチベーション」というこれまたリクルートを脱サラした小笹芳央さんの会社。「潜在能力を引き出す」をテーマにしている私にとって非常に共感できる思想を広めようとしていて、私は今も同社主催の経営者セミナーなどでお世話になっております。

 岩手のリクルートの事業を加森観光に譲渡した当時の社長の事情をもこの本では描かれていて、江副さんは激怒したと書かれてましたが、傍から見ていて仕方なかったと思いましたね。

 それにしてもリクルートを退いて70代になっても、安比高原でスキーをしていた江副さんの元気には恐れ入りました。

 また、最後まで旺盛な事業欲には、当社会長にも通じるものがあって、83歳にして頑張っているので正直なところどうかなと思えていたところがあったのですが、それこそが創業者が創業者である所以なのかもしれません。

 いやはや、この本でいろいろ考えさせられました。先に読んでLINEで紹介してくれたKくん、ありがとう。

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 本日は、中途採用で若手の指導員S君に同行して、中村ファームに行ってきました。

 久しぶりにここの農場にやってきたので、まず私と農場長の雑談を少ししたのですが、その後は日頃やってる指導員と農場長の会話をそばでただ聞いているという構図(笑)。

 うーん、これって、50年も前に、父が農場に行った時にただただ待ってる私と同じだなと思ったりして。クルマの中だったり、コタツの中でみかん食べながらだったり、その家の同じ年頃か上の子供さんと遊んでもらったりだったけど。

 それにしても写真奥の高いところにある、平成3年に制作した新社名披露のときのポスターが懐かしい。下半分がカットされてるけど、「こころざし、高く。」のコピーが残ってる。懐かしい! このコピーは私があれこれ考えて出来たものです。

 そのこころざしは26年前のもの。今は、そのこころざしがその後どうであったか結果で評価されてしかるべき時。‥さて、どうなんでしょう。

 当時の思いは、とにかく国産が輸入品に押され混沌とした中から這い上がりたいという思いだったと思います。とにかくこの業界を取り巻く環境がぐんと良くなったことだけは言えますね。

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 先月、福井県と富山県に行ったので、行ってない都道府県残るは和歌山県だけになりました。高野山に行きたいと思ってますが、さて今年中に達成できるか。

 日本地図をプリントして、それぞれの県の一番の思い出を書いてみましたので、せっかくなので改めてここに書いてみます。内容は思いつくままなのでご容赦を。

北海道:鶏糞肥料のお客様周り

青森県:家族が八戸に住んでた
岩手県:(地元につき省略)
秋田県:20代の頃海水浴に
宮城県:当社の秋保ブロイラー農場
山形県:土門拳記念館
福島県:社員旅行で常磐ハワイアンセンター

栃木県:鬼怒川温泉へ社員旅行
群馬県:林牧場さん視察とガレージ拝見
茨城県:日本ハムさん業者ゴルフコンペ優勝
埼玉県:全農チキンフーズさん研修
東京都:大学生のとき池袋に住んで渋谷に通った
千葉県:八千代市の石井食品さんの工場
神奈川県:家族が現在横浜に住んでいる

新潟県:鳥梅さんと佐渡ヶ島へ
長野県:武蔵野さんの実践経営塾
山梨県:甲斐食産さんとワイン痛飲

静岡県:前川製作所さん経営の朝霧ジャンボリーでゴルフ
愛知県:国際養鶏養豚総合展で講演
岐阜県:25歳の時にゲン・コーポレーションさんで3ヶ月研修
三重県:中部飼料さんとゴルフ

富山県:富山市内の環水公園
石川県:大学の卒業旅行で砂浜ドライブ
福井県:永平寺で座禅体験

滋賀県:彦根でPTA全国大会
京都府:ヒノマルさんによる数々の観光案内
奈良県:橿原市で産廃講習
和歌山県:(なし)
大阪府:鳥芳さん、鳥ぴんさんによる観光案内
兵庫県:日和産業さんとゴルフ

鳥取県:鳥八さんの社長と大山登山
島根県:鳥八さんの社長による出雲大社案内
岡山県:クラボウさんによる倉敷案内
広島県:鹿児島までドライブの途中スピード違反
山口県:取引先社長のご尊父さんの葬儀

香川県:森孵卵場さんによるうどんの店案内
徳島県:貞光食糧工業さんによる阿波踊り案内
愛媛県:21世紀の会で日本食研さんの宮殿工場視察
高知県:一冷さんの社長と黒潮カントリーでゴルフ

福岡県:鳥善さんの店の水炊き
佐賀県:ヨコオさんのファームホテルに家族で
長崎県:家族でハウステンボス
大分県:中津市唐揚げツアー
熊本県:21世紀の会で泊まった温泉
宮崎県:児湯食鳥さんの本社工場訪問
鹿児島県:エヌチキンさん本社工場訪問

沖縄県:父と海洋博

 以上です。こうしてみますと、ほとんど仕事関係でお世話になったことばかり。役得といいますか、ビジネスって有り難いものですね。

 普通であれば老後に出かけるであろう様なところに、現役のうちにこうして出かけたわけで、こりゃあ、老後も働かないと保たないかも(笑)。


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 来春の学卒者採用の二次募集の最終面接が昨日終了しました。

 30分間質問し続けるためにあれこれ用意しておくのですが、中には「小さい頃、大人になったら何になりたかったですか?」などと質問することがあります。

 では、そういう自分はどうなのか?

 「小学生の時は漫画家で、中校生の頃はオーディオ評論家、高校生の頃は工業デザインか建築家」みたいに答えてましたが、最近思い出しましたが、大学生のときはコラムニストというのがありました。

 雑誌が好きで、確か13誌ほど定期購読していたと思います。カラー写真と好きなカテゴリの文章をせっせと読んでました。で、読んでいると、こんな文章だったら自分にも書ける!と思えてきたんでしょうね。

 それでは、社会人になってどれくらい成就しているか振り返りますと、自宅もクルマもオーディオにこだわって音楽を楽しんでますし、会社の建物や自宅、それに会社のグッズや広告などのデザインにあれこれこだわってますし、こうしてブログを書くことでコラムニストも実現しちゃってます。

 あとは‥、何だか自分の人生自体が漫画じゃないかと思えてきています(笑)。

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 今年は盛岡駅前の「盛楼閣」にて食事する機会が何度かありました。

 思えば、初めて盛岡冷麺を食べたのは、結構遅くて30歳前後だったような記憶があります。 それまで焼肉店に行ったことがなかったのですが、友人がこの店が好きでよく連れていかれて、焼肉も盛岡冷麺も大好きになったのでした。

 でも、やっぱり最初は「何これ!ゴム食べてるみたいだ!こんなの食い物じゃない!」と拒否反応がありました。でも、3度目にはすっかりファンに。実はこれが標準的なパターンのようです。

 最初の拒絶反応ってホントあてにならない、とつくづく思います。身近なところでは、鶏の足、通称「もみじ」を食べることについても最初は私でもやっぱり抵抗がありましたが、いまや普通に味わって食べれます。

 ですから、海外に行っての、ちょっとやそっとのゲテモノ食いなら、平気な顔をして食べる努力をしてるつもりです。鈍感なわけではないので、誤解なきよう(笑)。
 

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 今年6月の院友会(OB会)出席の時にいただいた、大学案内の冊子がよくできていて、かつ最新の校舎が印象的だったので、いつか寄ってみなければと思ってましたが、昨日、積雪の影響で接待ゴルフがキャンセルになったことで時間ができたので行ってみました。

 おお、私が現役だった時の面影は全く無いじゃないですか。20代のうちに何回か足を踏み入れて以降行ってないので当然といえば当然ですが、別物になってました。

 上の写真のメディアセンターの地階は無料で入れる博物館になっていて、國學院の設立からが振り返られるようになってました。

 そもそも皇室構究所がその始まりとのことで、そういうことに全く関心なくこの大学を選んで入って卒業した私としては、このハイセンスなキャンパスとともに、今の学生たちが羨ましいような気がしました。

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 キャンパス内の神社になんて在学中は入ったことなかったのですが、新装になっていたので改めて入ってみました。清潔感にあふれ、いい感じでした。

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 神社から出ると対照的にモダンな校舎が見えます。

 少子化で大学同士の競争がこれからより激しくなってくるでしょうけど、ひとまず環境面で競争力をつけていることに素直にうれしく思いました。

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 右の國學院大學のポスター、これも良くできています。

 この国の心をうつす、日本人になろう。

 長い年月を積み重ね、培われてきたこの国の思想や文化。

 私たちの心の奥に根ざしているもの。

 カタチには表しにくいものですが、例えば正座の仕方にも、

 箸の使い方にも、私たちの日常の仕草や振る舞いの中に、

 その美しさを観ることができます。

 この思想や文化を礎にこれからの社会で

 世界に向けて活躍する人を育てる。

 それが國學院大學の役割です。

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 大学としてのアイデンティティを一本筋を通して表現しているキャンパスや媒体の表現。いいじゃないですかー。より愛着が湧いてきました。

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 ついでに裏の院友会館の辺り、広尾中学校との間の道路にも行ってみました。あの頃は図々しくも愛車ホンダシティターボをここに路駐してました。(私だけでなく)

 今の清潔感あふれるキャンパスには似つかわしくありませんね。今は止めれないようにはなってましたが、止めれたとしても、やらないでしょうね。
 

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 29年前に私のイギリス研修をアレンジしてもらった恩人であるデビッド・バトラーさんが、初めて奥様を連れて来日ということで、日本チャンキーさん主宰の懇親会に呼ばれ上京してきました。隣には、日本側でお世話になった山下憲吾氏もいらっしゃり、とっても懐かしかったです。

 バトラーさんとは6年ぶりにお目にかかりましたが、80歳になられ杖をついておりましたが、相変わらずスコティッシュジョークを交えた現役当時と変わらぬ話しぶりでしたし、29年ぶりにお目にかかる奥様が私の正面に座られたこともあり、ついつい焼酎のお湯割りが進みました。奥様はガーデニングをやっているということでその話題ももちろんしました。

 あっという間に3時間が経ち、締めの前に写真手前の私から、地元二戸のパイシーズさん謹製のビールジョッキをプレゼント。

 実は、出かける4時間前に思いつき、昔の写真を探し出し、私自ら筆ペンでバトラーさんの似顔絵を書いて、それを華やかにデザインしてもらって、グラスに模様を刻んでいただいたものです。

 コレにとっても喜んでいただき、締めの前にバトラーさんの口から更に一杯のビールが入ってしまいました。

 パイシーズ代表の田中祐也くんには急なお願いをしました。持つべきは近くのセンスある仲間ですね。感謝です。

(写真撮影は福田種鶏場の山上祐一郎社長です。ありがとうございました)
 

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 父が糖尿病でしたので20年ほど甘いものを控えておりましたが、逆単身赴任が始まってから、売り場の誘惑に勝てず、少しずつ復活してきています。

 人間ドックで良好な値が出てましたので、この年齢まで来たら逃げ切れるかと、合理的解釈をしています。稲盛塾長も最近タバコをよく吸っているようですし(笑)。

 甘いものの中でも圧倒的に好きなのはアイスクリームでして、たまに自分へのご褒美として買って食べてますが、最近ご褒美の頻度が高すぎるかも知れません。

 一番好きなのはこないだまで「ジャイアントコーン」でしたが、今は「チョコモナカジャンボ」です。一番売れているだけあって、素晴らしいです。

 実はチョコレートアレルギーを持ってて、食べ過ぎると歯が痛くなります。しかし、これくらいなら大丈夫みたいです。

 そんな私の目に入った、棚積みの「バッカスチョコレート」「ラミーチョコレート」。なんと、冬季限定じゃないですか。懐かしくてついつい買ってしまいました。子供の頃結構食べれて、洋酒入りということで大人気分だったんですよね。

 正直甘すぎるチョコレートは既に体が受け付けなく、余してしまうくらいです。しかしこれは別。歯の痛みと戦いながら少しずつ消化していきたいと思ってます。

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