きまじめチキン日記

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カテゴリ: 会社の歴史

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 平成4年(1992年)に社名変更して、その翌年だったかに作ったTシャツが4枚わがクローゼットに残っています。

 なかなかの色使いでしょう!? 私の趣味で作りました。いま社員に見せたら、「こんなの着たくない!」とか言われそうですね(笑)。

 そういえばもう終わってしまった一昨日の感謝デーに私が着て行けばよかった。いや、来年の感謝デーはこれのうちどれかを着て行きましょうか。

 撮影のために出してみたら、なんと黄色地のものは肩パッドが入ってるではないですか! 31年も前に手が込んでるもの作ったものです。

 31年前となればOBとしてこのTシャツを持っている方もいるのでしょうね??

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 自己申告の閲覧とコメント書きにたっぷり時間を費やした後は、社内に募集して集まった75周年に向かっての246通のエピソードに目を通す仕事が待っていました。

 いやこれが涙なしには読めません。私のあずかり知らない現場で数々のドラマがあったわけですよ。これを読むと社員への敬意が増し不満が消えます(笑)。

 そして、私が社長業20年でやったことを受け止めてくれる人がいて、振り返ると既にそれが当社の歴史にもなってきている。ありがたいことです。

 しかし、これら読んだのは現役からの限定なので、これからOBにも語っていただいたエピソードが加わってきて、75年の歴史が浮かんでくることでしょう。

 3年後75周年だから、75のエピソード集にしようと始まったわけですが、さてどういうものができるか楽しみです。S専務はじめ、編集方は大変だと思いますが頑張ってほしいものです!

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 ここ20年で高病原性鳥インフルエンザの国内発生が頻発し、一般の方にとっても「養鶏場」という言葉が馴染んでいるのではないでしょうか。

 そして最近では、農水大臣への金銭授受で採卵養鶏業界のナンバー2、アキタフーズのオーナーが有罪判決を受け、最大手のイセ食品は会社更生法手続きの開始と、全国ニュースを続けて提供しています。

 もしかすると、「鶏関連の話題が多いね!」と私に言いたい業界外の方がいると思いますが、採卵業界は我々チキン業界からするとあくまで別個な業界なのですよ。

 とはいえ、たまご業界2大巨頭のシェア争いは畜産業界界隈では有名でしたので、凄いなとは感じてました。企業間競争で得するのは消費者、を地で行くような業界かと半分リスペクト。でも半分‥。

 ちなみに当社の創業者、十文字健助は中学を卒業して72年前に始めたのが、採卵養鶏です。

 卵を産まないオスは副産物として肥育して肉用に出荷していたことから、アメリカから肉専用種=ブロイラーの国内普及の兆しに機敏に反応して、業種転換を図ったというわけです。

 その後日本経済の高度成長期と軌を一にしたブロイラーの消費拡大に乗って当社も事業拡大し、その後は輸入鶏肉の台頭で厳しい時代を凌いで、今に至っています。

 もし健助相談役がそのままたまご業界に居て、規模拡大を図っていたらどうなっていたんだろう?とつい思ってしまいます。イセ食品やアキタフーズのオーナーと世代は一緒ですし、おそらく気質は近いものがありますので、果敢にシェア争いに参戦していたかもしれませんね。

 現段階では「創業者が機転を利かせて、こちらブロイラー業界に乗り換え、その後耐え忍んだことに感謝したい」気持ちですが、この先はどうなることか?

 世界情勢と円安を反映して過去最高の飼料価格になりそうですし、巣ごもり需要が終われば供給過多が露呈して鶏肉市況も崩れそうなので身構えています。

(写真:どうしても我が家の冷蔵庫の卵は賞味期限を過ぎてしまう‥けど食べます)

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 これは1991年4月1日、社名変更に当たって地元の岩手日報に出した全面広告です。

 ということは、株式会社十文字チキンカンパニーになってあと半月で31年ですね。

 ちなみにその前の名前は、有限会社十文字養鶏でした。設立は1975年でしたから、今思えば16年しか使わなかったとは驚きです。

 さらにその前は個人商店で、「十文字養鶏所」と言われていたようです。創業者、健助が中学を卒業してすぐ鶏を飼い始めましたので、その期間は25年です。

 というわけで現社名が最も長いわけですが、地元の年配の方々には工場の屋号であった「株式会社十文字ブロイラー」のほうが馴染みがあるらしかったりします。

 でも、十文字という珍しい苗字のおかげで、どう呼ばれようが一つのものとして認識してもらっているようですので、なんでも歓迎です(笑)。

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 岩手県ブロイラー事業協同組合15周年誌を見てたら、こんなページがありました。

 社名が懐かしいじゃないですか。というのも、12組合員の社名が螳ど繫孝商店さんを除いてことごとく変わってる! 思い出せる範囲で、工場単位で各社の変遷を書いてみましょうか。太字が現会員です。(敬称略)

 第一ブロイラー 軽米工場 → プライフーズ 軽米工場

 螳ど繁孝商店 九戸工場 → 螳ど繁孝商店 九戸工場(変わらず)

 蟒淑源ブロイラー → 蟒淑源二戸フーズ → 蟒淑源チキンカンパニー 二戸工場
  → 蝪丕米鷂優奸璽

 蟲彁ブロイラーサービス → 蟒淑源久慈フーズ
  → 蟒淑源チキンカンパニー 久慈工場

 訶擽競屮蹈ぅ蕁次、 プライフーズ みちのく二戸工場(解体無し)

 蠢看青算 岩手県央工場 → 岩手農協チキンフーズ 八幡平工場

 蠢看青算 岩手県北工場 → 襯船ンテック → 蟒淑源チキンテック
  → 岩手農協チキンフーズ 県北工場 → 螢侫譽奪轡絅船ン軽米

 蟯篌蠱羆ブロイラー → 蠹賈魅痢璽汽鵐屮蹈ぅ蕁次、 蠅箸めきファーム
  → 螢献礇僖鵐侫 璽 盛岡工場

 蠑嫉鎖鳥 → 蠑赦促妊螢 → 螢ンショク → 蟯篌螢船ン工房(解体無し)

 八重樫商店 → (不明・もともと食鳥生産はやっていなかった?)

 覯2以産 → 蟒淑源チキンカンパニー 一関工場 → (工場廃止)

 蠑山ブロイラーセンター → 螢ヤマ

 東北チャンキー蝓―仕鳥業所 → 住田フーズ

 蟯澱櫂屮蹈ぅ蕁次、 螢▲泪織

 ‥というわけで、かなりの変化でした。環境の変化に積極的に対応できてきたから今があると言っても過言ではないでしょう。

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 地元の岩手めんこいテレビで不定期に放送されるという「スタートライン」という番組の第3回に当社創業者で現在相談役の十文字健助を取り上げていただき、昨日12:00〜12:30というすごい時間に放送いただきました。

 この5月には満87歳となり、中学卒業してすぐ鶏の飼育を開始してから71年になりますので、広報採用課には「時間があったら相談役の昔話を聞き出して動画に残しておくように」と指示してありましたが、おそらく忙しくてできてなかったと思います。

 そこに、今回の番組の話をいただき、こうして放送されたものを見ますと、代わりにやっていただいた格好になったかな。感謝です。

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 この番組の中で相談役から「労使」という話がありました。労が先にあっての使。そんな話初めて聞きました。でも、確かに「働いている人の気持ち」は昔から大事にする人でした。仕事を託した人が本気で働いていれば嬉しいみたいでした。

 その労使の話に続いて今年の全社スローガン「部下が主役、上司は脇役」を持ってくるとは、ちょっとびっくりしました。なるほど、確かに。

 私がこれに込めた意図は「上司は部下よりいい仕事をするから上司でなく、部下がいい仕事ができるようにするのが上司」という意味でしたので、相談役のことは眼中に無かったのですが、ちゃんと引き継いでるかな。よかった。

 それに「信用」への言及がありました。飼料会社さんが3ヶ月後とかの手形決済を受けてくれることで、一農家からどんどん成長していったわけですが、それだけに自分が信用されることが生命線であり、また信用されているという手応えがあることに喜びを感じていたことは10代の頃端で見ていて感じてましたね。

 改めて、何を喜びにして仕事するのかを考えさせられた番組になりました。

 この番組がこれから創業を考えている方のいい刺激になって、地元出身で名だたる企業がどんどんできればいいですね。

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 googleフォトを見てましたら、29年前の旧本社の写真が出てきました。

 CI(コーポレート・アイデンティティ)を導入して、社名変更して、新しいシンボルマークやロゴを使った看板を付けた直後に撮影したものです。

 現本社に引っ越したのは17年前の2003年ですが、この旧社屋を懐かしむ方も結構いらっしゃるのではないでしょうか。

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 クルマが懐かしいですね。

 看板の下のBMW750iは当時の健助社長(父)のもので、隣の日産セドリックは社長のお下がりで社長の弟の工務部長が乗っていたのでは。手前左の紺のホンダ・アスコットは私のクルマでした。

 右の三菱のセダンたちは確か社用車で使っていたもの。最初の写真のスバル・アルシオーネは現八幡平工場長の愛車でした。

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 玄関にもシンボルマークとロゴを貼ったのでした。「自動ドア」の表示の背後には、社内中に貼ったCI導入時のポスター。

 中の様子は残念ながら撮影してなかったようで。

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 工場・本社の敷地入り口からの眺めです。右が茶色の壁が、私の生家。懐かしい。

 考えてみれば私と父は29歳違いなので、ちょうどこの頃父は今の私の年齢57歳だったわけですね。

 息子がガチャガチャ動いて、社名とシンボルマークを変えよう!みたいな動きをしていたときの親の気分はどうだったんだろうか?とちょっと思いました。

 けど、ま、あまり関心が無い世界だったと思うので、文句も言えなかったというのが実際のところじゃなかったのかな。

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 PJ二戸フーズ労働組合の45周年、誠におめでとうございます。

 当社の歴史を振り返りますと、1950年に創業者十文字健助が中学卒業と同時に鶏の飼育を開始し、1960年には結婚を機に本格的に事業拡大に着手し、翌1961年に二戸市石切所字穴牛にて廃鶏の処理を開始したことに原点を見出すことができます。

 その後、抜きオスの処理を経て、1966年にブロイラーの処理が始まっています。当初は体重1キロそこそこで、しかも歩留まりの非常に低い生体でした。

 その後、日本経済は高度成長期を迎え、ブロイラー産業は大きく伸長。その中で当社は丸屠体出荷からいち早く解体を開始し、首都圏への供給で支持を集めました。

 1976年には法人化し株式会社十文字ブロイラーとなり、1991年には株式会社十文字二戸フーズへ社名変更。翌1992年には仁左平に工場移転し、2006年株式会社十文字チキンカンパニーに吸収合併。

 そして2016年より1日480分稼働、2017年からはプライフーズ株式会社の資本参加のもと株式会社PJ二戸フーズとなり、生鳥処理を受託するようになっています。このように大きな変化を経て来れたのも、貴組合の理解の賜であり感謝申し上げます。

 労使関係を振り返りますと、高度成長の時代背景のもとで、日本人の賃金水準が急上昇し、当業界の事業規模も急成長し、賃金交渉の場では切磋琢磨があったわけですが、その後、バブルが弾け、輸入チキンが台頭してきて国内生産は平成3年をピークに減産に向かい、貴組合は「会社あっての組合」と協調路線に転換していただきました。

 その後、日本人の魚介類消費の減少に伴い鶏肉消費は増加し、さらに鶏の育種改良や工場の大規模化、機械化が進んだことで国内生産が息を吹き返し、またカイゼン活動などにより地元を代表する企業として満足いただける賃金・賞与の回答ができるようになって参りました。

 今回のコロナ禍は当業界にとっては追い風でしたが、これからどのような障害が待ち構えているかわかりません。

 いずれ、経営の立場からは、社員の皆さまと気持ちを一つにしてチームでいい仕事をして、お客様に喜んでいただき、時代の荒波を乗り越えていきたいと願っております。

 これからもよろしくおねがいします。

(コロナ禍で式典と祝賀会は中止になり、記念誌を頂戴しました)

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 2001年から生産しております「鶏王」。

 アスタキサンチンが多く含まれるファフィア酵母と、オメガ3脂肪酸を多く含まれるえごま油脂を使った飼料を与えた結果、生育が遅めでじっくり育てられ歯ごたえが良く、肉色が琥珀色という、菜彩鶏の上に位置する銘柄鶏です。

 相手先ブランドでの流通が主でしたが、時代の要請はよりリーズナブルな価格帯ということで、本日生産を終了することになりました。

 ご愛顧誠にありがとうございました。

 当社の銘柄鶏としては赤鶏に続いての撤退になりますが、少品目になることで生産効率アップが見込め、代わりに菜彩鶏の拡販に力を入れることになります。よろしくおねがいします。

 ちなみに「鶏王」の命名も私です。当時、「ラ王」が流行っていたので‥。ちょっと仰々しかったかな。

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 当社の来年のカレンダーは「創業70年のあゆみ」ということで主に昔の写真を散りばめたものになっています。

 出来栄えは、正直自信がないです。11月私が忙しくしてたこともあって適切なディレクションが出来なく二転三転してしまったので、ほんとに関係者の皆様に迷惑をかけました。

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 最終的なコンセプトは「昔の写真を見て懐かしんでもらえて、かつ笑顔になってもらえたら」でしたが、届いてみるとこの写真で良かったのかと思えてきて、ちょっと悔やみますね。

 また、自社のPRをカレンダー上でやってしまって申し訳無いような気もします。しかし、あっという間に無くなってしまったとのことで、喜んでいただけたかな。

 ちなみに写真下の文章については、原稿を担当でベテランのTさんに作成してもらいましたが、かなり私が手を入れました。そこは力を入れたので、ぜひ読んでいただけたらと思います。

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 「パルシステム2030年ビジョン作成に関わるヒアリング」ということで呼ばれて、取引開始以来の四半世紀を振り返る会話をしてきました。

 平たく言えばインタビューを受ける側だったんですが、産直提携による取引開始の辺りのことは私が当事者ではなく、逆にインタビュワーを務めた先方の網野部長のほうがよく存じ上げていて、教わるかんじでしたね。

 思えば、当時は国内産地が輸入チキンに押されて、当社は連続赤字を食らって、債務超過ギリギリだった頃。

 私としては、後継者として明るい将来など描けなかった時期でしたし、取引先さんのその先の組織として、全く初めてのお付き合いの世界でしたから、何が始まるのだろう?という感じだったと記憶しております。

 当社のその当時の付加価値路線を後押しするありがたいお客様でしたが、当初は受注の見通しと実際の量の解離で、加工の現場である当社の食品センターは連日の夜を徹した稼働で応え、大変な時期があったはずです。後に社内では異色となる戦友意識を醸し出したほどでした。

 それだけはちょっとした語り草でしたが、パルシステムさんの組合員さんたちをはじめとする産地を励まし応援する姿勢には、当社の農家の皆さんも含めとても勇気付けられてきました。

 私自身マーケットイン志向だったので、オピニオンリーダー的立場にあるパルシステムさんとは相性が良かったのではないかと思います。

 さらには、肉だけでなく、当社のバイオマス発電事業の強力な後ろ楯になっていただき、その社会的意義を宣伝してもらっているようで、これまたとても勇気付けられています。

 最後に、これからどうパルシステムと関わっていきたいか?と聞かれましたが、その場ではちょっと言葉にならなかったですね。

 これまでの恩を返すべく、高品質な肉と安定した電力供給はもとより、われわれが地方の元気を維持する原動力となって、喜んでもらえたらいいかな。

 こうして四半世紀を振り返ると、ありがたいことばかりで、このあとのパルシステムさんの賀詞交歓会に臨む気持ちがいつもと違いましたね。

 理想を胸に刻んで、実践していきたいものです。いい機会をいただいて、ありがとうございました。

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 昨日は清水隆治参与(前副部長)の送別会がありました。参加人数は65人と、これは過去最高でしょうか。

 というのも当然ですね。高校卒業以来42年間の長い間ずっと当社で勤務され、生産部、製造部、環境部と広く活躍され、また持ち前の明るい性格と部下の育成に力を注いだからこそですね。

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 サプライズで奥様もゲスト参加。ちなみに清水夫妻は、当社の社内結婚第1号だったそう。

 更にいうと、当社の高卒採用の1期生でもありまして、これは今の大学卒採用と同じくらいの幹部候補生としての入社だったとか。

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 生え抜きの幹部が、再雇用で最後まで当社に籍をおいていただけないことは残念なことではありますが、当社と取引のある会社さんが農場運営の経験者を望んでて、声がかかったというのは自然なことではあります。

 この日、参加者の顔には笑顔が溢れておりました。次の職場は近くでもありますし、同じこの業界の中で大先輩が活躍するだろうということは目に見えてるので、寂しい思いはそんなにしないのかな。

 私のスピーチで「感謝、感謝、そしてまた感謝」と言いましたが、当社の成長期に力を貸していただき、社内のムードメーカーとして大事な役割を担っていただき、後進を育成していただいたことに、心より感謝申し上げます。

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 今朝の朝礼で、60歳を迎えた清水隆治副部長が誕生日スピーチをしてくれました。現役では最長となる42年の当社勤務から10大ニュースを暦年順に選んで話してくれ、大変興味深かったのでここに掲載させていただきます。ちなみに、引き続き嘱託として尽力いただくことになっております。


 6月21日で60歳になり来月の20日で定年となります。定年という節目にあたり自分なりの10大ニュースをまとめてみましたので紹介したいと思います。

1.大野第2農場の大火事 (平成10年)

 13棟燃え100,000羽焼死しその処理をするために、地元の建築業者及び久慈工場や協力会社等大勢の方から応援して頂き約5日間で瓦礫と死鳥処理を完了。
   
2.1日で120,000羽の熱死発生(平成12年)

 大量の熱死処理を関係者が徹夜で行ったが処理しきれず翌日も行ったが、腐敗が進んで大変な思いをした。

3.全銘柄無薬飼育開始(平成13年)

 大規模飼育で全銘柄無薬というのは当社が日本で初めてだったので、生産者の薬に対する考えを変える事から始めたが納得するまで大変だった。

4.軽油流出事故(平成14年) 

 ドラム缶から軽油が川に流失し消防団、警察、マスコミ等大勢詰掛け新聞沙汰で会社に迷惑をかけた。

5.二戸工場にトリダス導入(平成17年)

 15名の人員削減をするために組合との交渉を何度となく行い合意にこぎつけた。また当社で最初の導入で軌道に乗るまで試行錯誤の連続だった。

6.中国出張中に送り出し機関仙台入管捕まる(平成18年)

 面接を中止して帰ろうとしたが、ホテルに監禁状態にされ一時はどうなるかと思った。
 
7.新山形孵卵場の立上げ (平成21年)

 老朽化と規模拡大に伴い日本一の工場の完成し、第一回目のヒナが生まれた時はホッとした。

8.年末年始の大雪で大きな被害(平成23年)

 鶏舎倒壊で2000坪が無くなった。また停電により80,000羽の蒸らし事故発生したため関係者が元旦から処理にあたった。

9.東日本大震災発生(平成23年)

 飼育に必要な餌とガスが遮断され飼育中の鶏1,800,000羽、ヒナで1,800,000羽死に、会社にとって甚大な被害で会社が潰れると思った。

10.発電所稼働(平成28年)

 環境部という新しい部署に配属になり日本で最大級の発電所の立ち上げ携わり貢献できた。

 紹介した以外にも色んな出来事があり思い出にありますが、42年間の長い間お世なり沢山の方々から助けて頂き感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

(写真は昨年12月の高村丈治前工場長送別会の際のもので、左側が清水副部長)

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 大庭先輩のご霊前に、十文字チキンカンパニー社員一同を代表して、謹んでお別れの言葉を申し上げます。

 大庭さんが当社に入社されたのは昭和51年のことでした。時はまさに高度成長期。戦後アメリカより持ち込まれたブロイラー産業が急速に普及していた時期であり、当社創業者、十文字健助の金庫番として最初から経営の要所を担って頂きました。

 昭和58年には常務になられ、先に入社していた矢部専務と健助社長と3人でトロイカ経営と言われ、当業界では珍しい一農家から始まったという脆弱な基盤を支え、健助社長の方針であるテンポの早い資本投下を影で支えていただきました。

 昭和63年にはナンバー2の専務になられ、管理部門だけでなく農場や工場の現業の仕事も見ていただくとともに、当社にとってはエポックメイキングとなる、当時の岩手県経済連さん、全農チキンフーズさんの岩手でのブロイラー事業の継承の話をまとめ上げ、平成元年には岩手農協チキンフーズ株式会社を立ち上げることが出来ました。

 その後、輸入品の台頭で当社は瀕死の状態に遭いました。それまで急激に規模拡大してきたことから、財務は逼迫しましたが、当時金融機関の皆様に見捨てられずに今に至っているのは、大庭先輩の明るく率直な人柄と説得力ある仕事ぶりがあってのことと確信しております。

 その後、当社を健全な状態に回復させ、次世代となる私が社長になると同時に経営の第一線を退いていただきました。

 その頃に私が役員会で「現場のことがまださっぱり分からないのに、社長やっていいのだろうか?」と発言したときに「そんなこと言ったら、オレだって今でも分かんないことだらけだよ」と言ってくれたことでどれだけ励まされたことでしょうか。

 当社に入る前からこの業界に携わり、また当社を卒業されてからこの業界でご活躍されても、あのウイットに富んだ言い方は変わらなかったでしょうけど、芯にあるのは謙虚さだったような気がしております。

 晩年は日頃から酸素ボンベが欠かせないと聞こえてきており、心配しておりましたが、亡くなるまで周囲を気遣い容態を知らしめなかったと聞いております。

 タバコを好むと同時に、宴席ではジャックダニエルを持つ姿がトレードマークでした。そういえば、「太く短く生きたい」と言われていた記憶があります。

 ブロイラー産業の顔の一人として、周囲の人に尊敬され、愛され、見事に太い人生を歩まれた姿は、私にも、当社社員にも、いや業界中に焼き付いていることでしょう。

 おつかれさまでした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。さようなら。

(写真:昨日、盛岡の告別式会場までの往復の車中で聞いた、大庭さんから社員にプレゼントされた、岩手県内のジャズメンによるCD)

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 久慈工場増設工事の竣工に伴い、記念品を作って配ろうという話になりましたが、過去にずっとマグカップを作成してきましたので、今回も自然とそうなりそうです。

 私自らデザインしてきましたので、もちろん今回も。

 案を練る前に過去に作ったのを見たいなと思いたち、過去のを集めて中会議室の空いてる本棚に並べてみるよう指示しました。でもこれが全部かな?

 改めて見てみると懐かしいですね。そして、昔作ったものでも古くならないマグカップという商品の特性にちょっと感心しました。

 さて、どう作ろうか。

 「有限会社久慈ブロイラーサービス」として当社第2の工場を建設したのが1978年ですか。それから39年という重みを数字で刻み、新工場と現工場の絵を入れたいのですね。

 でも、現工場は顔になる景色が全然浮かばなくて困った‥。

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 昨日は年2回の協力会社会議がありました。

 前回に続いて、協力会社の紹介のプレゼンをしてもらいました。今回は、捕鳥、生鳥輸送、敷料(おがくず)供給、製品輸送でお世話になっている、一戸町の有限会社中村商事さんです。

 昭和35年に創業し、50年から当社の仕事をして頂いております。

 逸話として、当社の健助会長がゴルフを始めた頃、ゴルフ場への送迎をやらせられていて、それ用のワンボックスカーがあったとその写真を見せていただきました(上の写真ではないですよ)。

 そこで疑問。その頃会長は40代前半ですから自分で運転できたはずです。クルマ好きですしね。

 それでもわざわざ呼びつけて運転させたのは、情報集めということなのでしょうね。

 うーん、負けないようにしなければ。送迎はさておいて、時々はついでに突然訪問してみようかな。迷惑かもしれないけど。
 

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 いま、昨年見学ツアーを行った旧二戸工場を解体しております。

 こういう案件は会長に主導していただくのですが、費用を負担できる景気の良いうちにやるように私からはお願いしてあります。

 古い工場が残っている価値を声高に言ってくれる方も内外にいるのですが、私は写真に残すくらいにして、幽霊屋敷はすっきり無くしたい方です。固定資産税のこともありますし、あとで必ずかかる費用ですからね。

 ここでの一番の思い出は、盆踊りですね。景品をたくさん用意して、内外から踊り手がたくさん来て賑わったあの頃。そうそう、子供の頃は工場の中で卓球やったりもしました。それから入社してすぐには、事務所のみなさんと昼休みに外でバレーボールやりましたっけ。

 昔はみんな若かったなー。

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 この秋の合宿研修での「会長に訊く」の時間で、会長自身がとても反省していたことがありました。

 それは、鶏舎をあまりに多種多様に作ったこと。当社は平屋建てから中には3階建てまで、小規模な鶏舎から体育館のような大規模な鶏舎まで、その掛け算で(笑)いろいろな鶏舎があります。

 この業界に後から参入した大資本は、統一した鶏舎を建ててましたのではっきりとした好対照になってしまいました。 

 なぜそうなったのか。土地は多種多様にあって、その形状にあわせて、その時々の会長のアイデアで建てていったとのこと。柔軟性がありすぎたんでしょうね(笑)。

 おかげで当社の農場の成績は他社に劣っていたわけで、それを補うために仕入れを‥みたいな順番になっていたのでしょう。 

 管理するならシンプルがいい。30〜40年を経る鶏舎もあってこれからスクラップ&ビルドが必要です。改めてシンプル・イズ・ベストを強化しなければと思いました。
 

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 先週の「会長に訊く」の時間に、創業当時、雛は遠く愛知県から十数時間掛けてやってきたという話がありました。

 私の幼い頃の記憶でも、今の二戸駅東口駐車場の辺りに貨物の取扱所があり、そこに夜行ってひよこの到着を待ち受けた覚えがあります。

 ダンボールを持つと、中のひよこたちが健気にバランスをとろうと動き回る音。懐かしいなあ。それと下に敷き詰めたそうめん状の敷料の感触。

 年月が書かれていないこの荷札には「デカルブひな」とありますので、ブロイラーをやり始める1960年代前半のものでしょうね。

 ご丁寧にもパウチして、こないだまで技能実習生寮の鍵に使われていたようです。 
 

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 現社屋へ引越して11年。

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 旧本社、旧旧本社社屋と、隣接する旧二戸工場、旧旧二戸工場、会長の新旧自宅など、会社の創業に関わる現場ツアーをやるようにと指示を出したところ、4回に分けて開催されました。その1回めをオブザーブ。

 参加者は、これら一連の建物があった「穴牛」に行ったことがない総合職、事務職約100人。

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 以上の写真は旧二戸工場です。現二戸工場が平成4年(1992年)に移転してから資材置き場として一時使っておりましたが、それ以降そのままの状態でしたし、今後解体する可能性もあることですし、ちょうどいいタイミングだったかな。

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 まずは旧工場の従業員休憩室のうちの一室である「川又ルーム」に集合。

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 昔の製品箱はこんなでした。JUBROというブランドネームだったんですね。

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 それから、デジカメなき時代の生写真を閲覧。

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 旧二戸工場の工場長だった佐藤専務が思い出しながら解説。

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 その脇には、今回のツアーのサポート役の清和常務、千葉部長補佐。みな30年選手です。

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 22年前に引っ越したので、その時の最後の集合写真ですね。私も後ろに写ってました。

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 パワーポイントの説明を聞いたあと、工場を回ってみました。出荷口周辺です。
 
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 そして、5分ほど歩いて会長宅そばの旧旧二戸工場の跡地へ。会長が出てきて解説しました。

 私の子供の頃の記憶と少し違うところがあったりしますが、ご愛嬌(笑)。

 内外の観光地を歩くほど華やかなものはありませんが、皆さんの勤める会社のルーツに少しでも思いを馳せ、先輩たちに感謝しながら仕事していただければと願っております。
 

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 この秋の部門合宿で、社長の時間(通常90〜120分)に何をやろうかと考えた末、会長である父がこの5月27日に80歳を迎えたこともありますし、来年は創立55周年にもあたるので、会長を呼んで会社の歴史に焦点を当てる時間にすることになりました。

 そのテキストは写真の創立40周年記念誌です。若い社員たちにもこれを渡して読んでもらって、更に旧本社・旧二戸工場に足を踏み入れてもらってから合宿の時間を迎える段取りとしました。

 ところで、50周年感謝祭の時に気になっていたのは、会長が何度も口にしていた「鶏を飼い始めたのは16歳からだからホントは60年‥」というセリフ。

 「おいおい、カウントの起点を決めたのは会長自身でしょ!」と言いたいところでしたが、そこはお祝いの場。心の奥底に閉まっておいたのですが、いいことを思いつきましいた。

 これまでは「創立」ということで、会長の思いで、人を雇い始めた昭和35年を起点としていたのですが、これからは「創業」ということで、鶏を飼い始めた昭和25年を起点にしてもいいんじゃないかと‥。

 というわけで来年は創立55周年であり、創業65周年でもあります。

 これで創業100周年を私が生きているうちに迎える可能性がかなり出てきたかな。我ながらナイス(笑)。

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 どの業界でもそうなのでしょうが、当業界も大手の寡占化が進んでいます。特に上位5県である鹿児島、宮崎、岩手、青森、北海道が伸ばしていると言えます。

 養鶏は大都市近郊で当初発達しましたが、今では都会ではあまり歓迎されませんので、自然と日本列島の南北の端に移っていると言っていいでしょう。

 当社もその主産地の一員としてライバル会社に負けじと増やしております。そして来年度の計画ではやっと当面の目標にしていた5,000万羽の生産が達成できそうです。

 ではこれまでどういう数量の増え方だったのか。昔のデータが見つからないので、分かる範囲で500万羽毎に振り返ってみました。

 1500万羽 1984年 
 2000万羽 1987年
 2500万羽 1990年 岩手農協チキンフーズ株式会社 県央工場完成
 3000万羽 1991年 
 3500万羽 2004年
 4000万羽 2005年
 4500万羽 2010年
 5000万羽 2014年 予定

 30年で3倍以上ですね。ちなみに社名別で瞬間的に業界ナンバーワンの羽数になったこともありましたが、その後、他社さんが伸びて当社は3番目となっております。

 そりゃあナンバーワンに成りたいですが、人口減の時代に無闇に新規投資するわけにもいかず、鶏舎の老朽化もありますし、できる範囲のことをやって様子を伺っているといったところ。

 でも、上位5県の中でもかなり恵まれた環境でやれていると思っております。

(写真:11月3日新農場の地鎮祭にて)
 

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 昨日は某飼料会社さんのH工場長のお誘いでゴルフをして、そのまま八戸にて食事会となりました。食事は何がいいですかと聞かれたので、「イタリアンかフランスがいい」と言いましたら、「KAZU」というイタリアンの店に決定。他のメンバーにも「たまにはいいですね」と喜んでもらいました。いつも和食系ですからね。実際リーズナブルな価格でおいしかったです。4人でワイン4本飲んで2万円と少々。

 一緒にゴルフをしたほかの2人の畜産業界人も2代目。初めてご一緒した人もいましたので、先代の創業のころの話で盛り上がりました。「当社だって元々はレイヤー(採卵養鶏)をやってたんだよ」と言えるし、養豚業界の知り合いも徐々に拡大してきつつあるので。

 もしかして「畜産業界の中心にいるのは我がチキン業界なのかな」と会話していて思いました。育種改良のスピードが速い。変化が激しい。隣の業界人が参考にして業界内他社と差別化している。

 当社の業界内の位置づけがどの辺りにあるのか、と同時に、当業界は畜産業界でどういう位置づけなのか、外部の意見は貴重です。そっち方面のゴルフが増えるかも(笑)。

(写真:飲みすぎた訳ではないのですが、なぜか寝付けず時計は午前4時過ぎに)

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 昨夜、(有)土橋ブロイラーの創業者、土橋喜一氏の通夜に参列してきました。享年87歳。80歳を過ぎてもクラウンを時々運転する姿を見かけてお元気で何よりと思っておりましたが、残念です。

 土橋喜一さんは、私の父の始めたブロイラー事業の、今風に言えばフランチャイズ農場として働いていただいていたのですが、後に独立して工場を構え発展された方です。

 その後、確か私が社長になる前に、八戸の第一ブロイラーさんの系列に組み込まれましたので、社名に名前を残しながらも悠々自適の晩年を送られていたと思います。

 そういう間柄だったので、ひっそりとした集落のお寺での通夜が終わってから、ご親族の方々からご丁寧に挨拶いただき、昔話を聞いて、昨今のビジネスの喧騒とはかけ離れた、いわば「家業」みたいなものを実感しながら帰ってきました。

 そういえば、私自身も今から29年前の大学1年の夏に、土橋ブロイラーさんの工場で1週間働かせてもらった経験があります。役に立たなかったはずなのに、ちゃんとアルバイト代も頂戴したんでしたっけ。

 ご冥福をお祈りします。

(写真:佐渡汽船「おけさ丸」からの眺め)

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 宮尾すすむさんが亡くなられたとのニュースがありました。享年77歳だそうで、ちょうど私の父と同世代だったんですね。

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 というのも、宮尾さんの有名な番組「ああ日本の社長」で1999年3月10日に、当時の社長である父、十文字健助を取り上げて放映して頂いたのでした。その20分ほどのビデオを久しぶりに見てみましたので今回はそれを紹介しますね。

 
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 始まりは孵卵場からです。今では鳥インフルエンザ等の防疫上の理由から、テレビのクルーも入れないわけですが、当時はこうしてシャワーを浴びて宮尾さんもカメラマンの方もディレクターも入って行きました。あ、これは私の背中です。

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 孵卵場について質問され、父はだいぶ緊張して対応しています。
 
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 孵卵器に卵を18日間入れて置いた後、生きていない卵を取り除き、発生器に移して3日間で孵化します。

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 昔は当社のインテグレーションの流れを見てもらうのに、孵卵場は生命の誕生ということで、積極的に見てもらっていたのですが、今は残念ながらビデオで観てもらうようにしています。

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 羽で選別をする方法の解説や、ワクチン摂取のこともたっぷり紹介していただきました。

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 飼育農場についても、今では考えられませんがテレビクルーが行って撮影していただきました。

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 とうもろこし中心の飼料で育てられた菜彩鶏のPRもしっかり入っています。

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 そして十文字グループの工場として、岩手農協チキンフーズ株式会社 県央工場へ。撮影は2月の寒い日でした。宮尾さんも父も上着なしで写っております。父は冬は常に厚い肌着を着ていますから大丈夫でしたが‥。

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 たくさんの社員がスピーディーに働いていることに宮尾さんも驚いていました。
 
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 また、パートやアルバイトというのではなくて、全員が正社員という形になっていることを驚いているようでした。

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 県央工場には食品センターという加工場がありまして、そちらも案内。

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 宮尾さんには、ベルトフリーザーに入る前の、熱々の唐揚げをつまんで食べて臨場感を演出していただきました。

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 シナリオにはなかったのですが、突然私に宮尾さんが「どんなお父さんですか?」と振ってきました。私の答えは「くどいです」。ははは、分かってないな〜! 社長はくどくなきゃ仕事に成らないでしょ、と今は思います。

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 今は亡き、地元のハーブレストランMIMIの荒谷シェフが作ってくれた菜彩鶏のメニュー。一つ目は「菜彩鶏のトマト煮込み」 うーん、懐かしい。

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 この「ああ日本の社長」はテレビ朝日系の「モーニングショー」という番組のひとつのコーナーだったので、料理方法も紹介。

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 あの荒谷シェフの味を、誰か復活してくれませんかね?

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 もうこの「菜彩鶏のソテー香草風味」なんて何回食べたんだか。そうだ、家内が確かこれだけは教えてもらったはず。何とか作ってもらおう。

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 実は父は料理は全然しない人です。そういう意味では人のことは言えないけど、父は関心さえ無い(笑)。ま、商品としてのフレッシュ鶏肉にはもちろんうるさくて、そのおかげで頑なに機会化を進めなかったのです。
 
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 これは正確には新婚当時の写真ですね。

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 この取材当時は年間3800万羽という紹介になっておりました。それから10年経って2割増程度。

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 番組の後半は、社長の自宅訪問。私が大学生として東京に住んでいたときにやっと建った家なので、私には縁が殆ど無かった家です。

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 ベンツSL500、BMW735i、スバルアルシオーネと父の車が充実していた頃ですね。

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 母も出演。取材日までの家の中を整理整頓、掃除するのに大変だったはずです。

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 それまでこの番組を見ていたわけじゃないので知らなかったのですが、マスクメロンを冷蔵庫に用意しておくのが通例だと聞かされ、用意しました。

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 2人のなれそめ等を聞かされ、私も知らなかったので助かりました。

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 最後に抱負を聞かれ「日本一を目指す」 ということでエンディング。岩手山を背景にやりましょうと宮尾さんの提案だったような気がします。

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 スタジオの締めは「よき環境は、よき人材を育て、よき事業を育てる」という宮尾さんのお言葉でした。

 当社を取り上げていただいてしばらくしてこの看板番組は終了し、宮尾さんもあまりテレビに出なくなったので、引退されたのかなと思っておりましたが、お体のことで苦労されていたのですね。ご冥福をお祈りします。
 



 50周年記念感謝祭に併せて製作したスライドによるビデオ「十文字健助、創業の物語」ですが、このほど著作権の関係の整理がつき、YouTubeにアップしました。

 私からあれこれ指示して社内で作ってもらったのですが、イメージしていたのを遥かに超える良い出来になっております。どうぞ御覧ください。

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 昨日は二戸市役所に小保内(おぼない)市長を訪ね、寄付金の贈呈をしてまいりました。これが6市町村最後となりました。

 寄付金の用途については、どちらの市町村にも「景観整備に使っていただければと思っております。当社のお客様もですが、この地域を訪れる方々に好きになってもらいたい。そのためにはまずは眼に入るものを整備していただければと思っております。」と話してまいりました。

 さて、二戸市に当社関連としては、60人ほどが働いている本社、250人ほどの二戸工場、10ヶ所の生産農場、2ヶ所の鶏糞処理場があります。

 もともと創業した土地ですが、だからか、古い農場が多くて、規模も比較的小さめ。鶏舎の坪数では全体の5%にしかなりません。そして、これからもなかなか二戸市内には鶏舎を建てられそうにないかな‥。

 それだけ二戸市も都会になった印象ですね。

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 一戸町に住んでおりました作家、三浦哲郎(てつお)さんが79歳で8月29日にお亡くなりになりました。

 処女作「忍ぶ川」で芥川賞を受賞し、座敷童子(ざしきわらし)が出る金田一温泉を舞台にした「ユタと不思議な仲間たち」は劇団四季のロングランミュージカルになっているという著名な作家です。

 その三浦さんの短編で「出刃」という、ブロイラー工場に勤める母をめぐる息子(与五)の心情を描いた作品があり、「木馬の騎手」という単行本(1979年発刊)に収められております。ちょっとだけ引用させていただきます。

 いまから五,六年前までは、与五のところでも鶏を二〇羽ほど飼っていて、与五はよく母親と一緒に産みたての卵を手籠に入れて、村はずれの通称十文字という養鶏場まで買い取ってもらいに通ったものであった。十文字では、村から買い集めた卵と自分のところの卵を一緒にして、町のマーケットや食料品屋に卸していた。

 いまはもう、鶏など一羽もいないが、それは十文字が、もっぱら卵をとっていた養鶏場を卵よりもっと儲かるブロイラーの飼育場に切り替えたからで、新しくブロック塀で囲まれた十文字の裏庭には、スレート屋根の建物や暖房の煙突が聳(そび)えたりして、以前の養鶏場の面影がすっかりなくなっている。

 
いや、本当にリアルに創業期当時の様子を解説していただいております。父と3歳違いだし、お目にかかったことがあるんでしょうね?

 ご冥福をお祈りいたします。

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 先週の21日(火)には盛岡市内での出前授業のあと、寄付金の挨拶のため八幡平市役所を訪問し、田村市長に対応いただきました。

 八幡平市には、農場が18ヶ所あり、これは市町村別では4番目の規模になります。

 また、500人が働く岩手農協チキンフーズ(株)県央工場があります。

 この工場は平成2年に、それまで百数十人が働いていた工場の隣に当時業界でも有数の規模の工場を建てたのですが、時はバブル。

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 人が集まらなきゃどうにもならない!ということで、広告代理店に気合の入ったチラシ(写真)を作ってもらい、会社説明会は盛岡市内ホテルで何度も開催して200名余りを追加採用していったのでした。

 そして、二戸とも久慈とも違う地域性に戸惑いながらも、会社の行事を重ねるたびに理解できていった記憶があります。

 当社の中では中央からの交通の便がよく、加熱加工までやっている工場ということで、シーズンでは見学者数が圧倒的に多い工場になっております。

 小山昇さんに「私が見た中では日本一」と言わしめたのが、私には誇りになっています。

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 昨日、軽米町役場に山本町長を訪ね、50周年の寄付金の贈呈を行ってまいりました。

 当社関連の施設は、生産農場が24ヶ所(市町村別では3位)、種鶏場が5ヵ所、鶏糞工場が2ヶ所、そして岩手農協チキンフーズ県北工場があります。これらの施設で従業者数は300人を超えるようです。

 子供の頃、父が農場を作り始めてまだ数カ所というときに、小学生だった私は助手席に乗せられてあちこち行ったのですが、軽米町の小沢農場に一歳上の男の子がいてよく遊んでもらいました。

 2人とも車が大好きで遊んでいても楽しかったのですが、山を超えて隣町なのにこうも言葉が違うのかと驚いていた記憶があります。あそこのことを「あっこ」、自分のことは「わー」でしたね。

 社会に出てから、会う人会う人、軽米町の人はすごく明るくて人懐っこくて、独特のカラーがあるように感じますね。八戸に近いからかな?

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