きまじめチキン日記

岩手県二戸市 昭和38年生 チキン産業 経営者 十文字保雄

カテゴリ: 会社の歴史

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 2001年から生産しております「鶏王」。

 アスタキサンチンが多く含まれるファフィア酵母と、オメガ3脂肪酸を多く含まれるえごま油脂を使った飼料を与えた結果、生育が遅めでじっくり育てられ歯ごたえが良く、肉色が琥珀色という、菜彩鶏の上に位置する銘柄鶏です。

 相手先ブランドでの流通が主でしたが、時代の要請はよりリーズナブルな価格帯ということで、本日生産を終了することになりました。

 ご愛顧誠にありがとうございました。

 当社の銘柄鶏としては赤鶏に続いての撤退になりますが、少品目になることで生産効率アップが見込め、代わりに菜彩鶏の拡販に力を入れることになります。よろしくおねがいします。

 ちなみに「鶏王」の命名も私です。当時、「ラ王」が流行っていたので‥。ちょっと仰々しかったかな。

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 当社の来年のカレンダーは「創業70年のあゆみ」ということで主に昔の写真を散りばめたものになっています。

 出来栄えは、正直自信がないです。11月私が忙しくしてたこともあって適切なディレクションが出来なく二転三転してしまったので、ほんとに関係者の皆様に迷惑をかけました。

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 最終的なコンセプトは「昔の写真を見て懐かしんでもらえて、かつ笑顔になってもらえたら」でしたが、届いてみるとこの写真で良かったのかと思えてきて、ちょっと悔やみますね。

 また、自社のPRをカレンダー上でやってしまって申し訳無いような気もします。しかし、あっという間に無くなってしまったとのことで、喜んでいただけたかな。

 ちなみに写真下の文章については、原稿を担当でベテランのTさんに作成してもらいましたが、かなり私が手を入れました。そこは力を入れたので、ぜひ読んでいただけたらと思います。

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 「パルシステム2030年ビジョン作成に関わるヒアリング」ということで呼ばれて、取引開始以来の四半世紀を振り返る会話をしてきました。

 平たく言えばインタビューを受ける側だったんですが、産直提携による取引開始の辺りのことは私が当事者ではなく、逆にインタビュワーを務めた先方の網野部長のほうがよく存じ上げていて、教わるかんじでしたね。

 思えば、当時は国内産地が輸入チキンに押されて、当社は連続赤字を食らって、債務超過ギリギリだった頃。

 私としては、後継者として明るい将来など描けなかった時期でしたし、取引先さんのその先の組織として、全く初めてのお付き合いの世界でしたから、何が始まるのだろう?という感じだったと記憶しております。

 当社のその当時の付加価値路線を後押しするありがたいお客様でしたが、当初は受注の見通しと実際の量の解離で、加工の現場である当社の食品センターは連日の夜を徹した稼働で応え、大変な時期があったはずです。後に社内では異色となる戦友意識を醸し出したほどでした。

 それだけはちょっとした語り草でしたが、パルシステムさんの組合員さんたちをはじめとする産地を励まし応援する姿勢には、当社の農家の皆さんも含めとても勇気付けられてきました。

 私自身マーケットイン志向だったので、オピニオンリーダー的立場にあるパルシステムさんとは相性が良かったのではないかと思います。

 さらには、肉だけでなく、当社のバイオマス発電事業の強力な後ろ楯になっていただき、その社会的意義を宣伝してもらっているようで、これまたとても勇気付けられています。

 最後に、これからどうパルシステムと関わっていきたいか?と聞かれましたが、その場ではちょっと言葉にならなかったですね。

 これまでの恩を返すべく、高品質な肉と安定した電力供給はもとより、われわれが地方の元気を維持する原動力となって、喜んでもらえたらいいかな。

 こうして四半世紀を振り返ると、ありがたいことばかりで、このあとのパルシステムさんの賀詞交歓会に臨む気持ちがいつもと違いましたね。

 理想を胸に刻んで、実践していきたいものです。いい機会をいただいて、ありがとうございました。

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 昨日は清水隆治参与(前副部長)の送別会がありました。参加人数は65人と、これは過去最高でしょうか。

 というのも当然ですね。高校卒業以来42年間の長い間ずっと当社で勤務され、生産部、製造部、環境部と広く活躍され、また持ち前の明るい性格と部下の育成に力を注いだからこそですね。

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 サプライズで奥様もゲスト参加。ちなみに清水夫妻は、当社の社内結婚第1号だったそう。

 更にいうと、当社の高卒採用の1期生でもありまして、これは今の大学卒採用と同じくらいの幹部候補生としての入社だったとか。

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 生え抜きの幹部が、再雇用で最後まで当社に籍をおいていただけないことは残念なことではありますが、当社と取引のある会社さんが農場運営の経験者を望んでて、声がかかったというのは自然なことではあります。

 この日、参加者の顔には笑顔が溢れておりました。次の職場は近くでもありますし、同じこの業界の中で大先輩が活躍するだろうということは目に見えてるので、寂しい思いはそんなにしないのかな。

 私のスピーチで「感謝、感謝、そしてまた感謝」と言いましたが、当社の成長期に力を貸していただき、社内のムードメーカーとして大事な役割を担っていただき、後進を育成していただいたことに、心より感謝申し上げます。

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 今朝の朝礼で、60歳を迎えた清水隆治副部長が誕生日スピーチをしてくれました。現役では最長となる42年の当社勤務から10大ニュースを暦年順に選んで話してくれ、大変興味深かったのでここに掲載させていただきます。ちなみに、引き続き嘱託として尽力いただくことになっております。


 6月21日で60歳になり来月の20日で定年となります。定年という節目にあたり自分なりの10大ニュースをまとめてみましたので紹介したいと思います。

1.大野第2農場の大火事 (平成10年)

 13棟燃え100,000羽焼死しその処理をするために、地元の建築業者及び久慈工場や協力会社等大勢の方から応援して頂き約5日間で瓦礫と死鳥処理を完了。
   
2.1日で120,000羽の熱死発生(平成12年)

 大量の熱死処理を関係者が徹夜で行ったが処理しきれず翌日も行ったが、腐敗が進んで大変な思いをした。

3.全銘柄無薬飼育開始(平成13年)

 大規模飼育で全銘柄無薬というのは当社が日本で初めてだったので、生産者の薬に対する考えを変える事から始めたが納得するまで大変だった。

4.軽油流出事故(平成14年) 

 ドラム缶から軽油が川に流失し消防団、警察、マスコミ等大勢詰掛け新聞沙汰で会社に迷惑をかけた。

5.二戸工場にトリダス導入(平成17年)

 15名の人員削減をするために組合との交渉を何度となく行い合意にこぎつけた。また当社で最初の導入で軌道に乗るまで試行錯誤の連続だった。

6.中国出張中に送り出し機関仙台入管捕まる(平成18年)

 面接を中止して帰ろうとしたが、ホテルに監禁状態にされ一時はどうなるかと思った。
 
7.新山形孵卵場の立上げ (平成21年)

 老朽化と規模拡大に伴い日本一の工場の完成し、第一回目のヒナが生まれた時はホッとした。

8.年末年始の大雪で大きな被害(平成23年)

 鶏舎倒壊で2000坪が無くなった。また停電により80,000羽の蒸らし事故発生したため関係者が元旦から処理にあたった。

9.東日本大震災発生(平成23年)

 飼育に必要な餌とガスが遮断され飼育中の鶏1,800,000羽、ヒナで1,800,000羽死に、会社にとって甚大な被害で会社が潰れると思った。

10.発電所稼働(平成28年)

 環境部という新しい部署に配属になり日本で最大級の発電所の立ち上げ携わり貢献できた。

 紹介した以外にも色んな出来事があり思い出にありますが、42年間の長い間お世なり沢山の方々から助けて頂き感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

(写真は昨年12月の高村丈治前工場長送別会の際のもので、左側が清水副部長)

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 大庭先輩のご霊前に、十文字チキンカンパニー社員一同を代表して、謹んでお別れの言葉を申し上げます。

 大庭さんが当社に入社されたのは昭和51年のことでした。時はまさに高度成長期。戦後アメリカより持ち込まれたブロイラー産業が急速に普及していた時期であり、当社創業者、十文字健助の金庫番として最初から経営の要所を担って頂きました。

 昭和58年には常務になられ、先に入社していた矢部専務と健助社長と3人でトロイカ経営と言われ、当業界では珍しい一農家から始まったという脆弱な基盤を支え、健助社長の方針であるテンポの早い資本投下を影で支えていただきました。

 昭和63年にはナンバー2の専務になられ、管理部門だけでなく農場や工場の現業の仕事も見ていただくとともに、当社にとってはエポックメイキングとなる、当時の岩手県経済連さん、全農チキンフーズさんの岩手でのブロイラー事業の継承の話をまとめ上げ、平成元年には岩手農協チキンフーズ株式会社を立ち上げることが出来ました。

 その後、輸入品の台頭で当社は瀕死の状態に遭いました。それまで急激に規模拡大してきたことから、財務は逼迫しましたが、当時金融機関の皆様に見捨てられずに今に至っているのは、大庭先輩の明るく率直な人柄と説得力ある仕事ぶりがあってのことと確信しております。

 その後、当社を健全な状態に回復させ、次世代となる私が社長になると同時に経営の第一線を退いていただきました。

 その頃に私が役員会で「現場のことがまださっぱり分からないのに、社長やっていいのだろうか?」と発言したときに「そんなこと言ったら、オレだって今でも分かんないことだらけだよ」と言ってくれたことでどれだけ励まされたことでしょうか。

 当社に入る前からこの業界に携わり、また当社を卒業されてからこの業界でご活躍されても、あのウイットに富んだ言い方は変わらなかったでしょうけど、芯にあるのは謙虚さだったような気がしております。

 晩年は日頃から酸素ボンベが欠かせないと聞こえてきており、心配しておりましたが、亡くなるまで周囲を気遣い容態を知らしめなかったと聞いております。

 タバコを好むと同時に、宴席ではジャックダニエルを持つ姿がトレードマークでした。そういえば、「太く短く生きたい」と言われていた記憶があります。

 ブロイラー産業の顔の一人として、周囲の人に尊敬され、愛され、見事に太い人生を歩まれた姿は、私にも、当社社員にも、いや業界中に焼き付いていることでしょう。

 おつかれさまでした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。さようなら。

(写真:昨日、盛岡の告別式会場までの往復の車中で聞いた、大庭さんから社員にプレゼントされた、岩手県内のジャズメンによるCD)

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 久慈工場増設工事の竣工に伴い、記念品を作って配ろうという話になりましたが、過去にずっとマグカップを作成してきましたので、今回も自然とそうなりそうです。

 私自らデザインしてきましたので、もちろん今回も。

 案を練る前に過去に作ったのを見たいなと思いたち、過去のを集めて中会議室の空いてる本棚に並べてみるよう指示しました。でもこれが全部かな?

 改めて見てみると懐かしいですね。そして、昔作ったものでも古くならないマグカップという商品の特性にちょっと感心しました。

 さて、どう作ろうか。

 「有限会社久慈ブロイラーサービス」として当社第2の工場を建設したのが1978年ですか。それから39年という重みを数字で刻み、新工場と現工場の絵を入れたいのですね。

 でも、現工場は顔になる景色が全然浮かばなくて困った‥。

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 昨日は年2回の協力会社会議がありました。

 前回に続いて、協力会社の紹介のプレゼンをしてもらいました。今回は、捕鳥、生鳥輸送、敷料(おがくず)供給、製品輸送でお世話になっている、一戸町の有限会社中村商事さんです。

 昭和35年に創業し、50年から当社の仕事をして頂いております。

 逸話として、当社の健助会長がゴルフを始めた頃、ゴルフ場への送迎をやらせられていて、それ用のワンボックスカーがあったとその写真を見せていただきました(上の写真ではないですよ)。

 そこで疑問。その頃会長は40代前半ですから自分で運転できたはずです。クルマ好きですしね。

 それでもわざわざ呼びつけて運転させたのは、情報集めということなのでしょうね。

 うーん、負けないようにしなければ。送迎はさておいて、時々はついでに突然訪問してみようかな。迷惑かもしれないけど。
 

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 いま、昨年見学ツアーを行った旧二戸工場を解体しております。

 こういう案件は会長に主導していただくのですが、費用を負担できる景気の良いうちにやるように私からはお願いしてあります。

 古い工場が残っている価値を声高に言ってくれる方も内外にいるのですが、私は写真に残すくらいにして、幽霊屋敷はすっきり無くしたい方です。固定資産税のこともありますし、あとで必ずかかる費用ですからね。

 ここでの一番の思い出は、盆踊りですね。景品をたくさん用意して、内外から踊り手がたくさん来て賑わったあの頃。そうそう、子供の頃は工場の中で卓球やったりもしました。それから入社してすぐには、事務所のみなさんと昼休みに外でバレーボールやりましたっけ。

 昔はみんな若かったなー。

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 この秋の合宿研修での「会長に訊く」の時間で、会長自身がとても反省していたことがありました。

 それは、鶏舎をあまりに多種多様に作ったこと。当社は平屋建てから中には3階建てまで、小規模な鶏舎から体育館のような大規模な鶏舎まで、その掛け算で(笑)いろいろな鶏舎があります。

 この業界に後から参入した大資本は、統一した鶏舎を建ててましたのではっきりとした好対照になってしまいました。 

 なぜそうなったのか。土地は多種多様にあって、その形状にあわせて、その時々の会長のアイデアで建てていったとのこと。柔軟性がありすぎたんでしょうね(笑)。

 おかげで当社の農場の成績は他社に劣っていたわけで、それを補うために仕入れを‥みたいな順番になっていたのでしょう。 

 管理するならシンプルがいい。30〜40年を経る鶏舎もあってこれからスクラップ&ビルドが必要です。改めてシンプル・イズ・ベストを強化しなければと思いました。
 

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 先週の「会長に訊く」の時間に、創業当時、雛は遠く愛知県から十数時間掛けてやってきたという話がありました。

 私の幼い頃の記憶でも、今の二戸駅東口駐車場の辺りに貨物の取扱所があり、そこに夜行ってひよこの到着を待ち受けた覚えがあります。

 ダンボールを持つと、中のひよこたちが健気にバランスをとろうと動き回る音。懐かしいなあ。それと下に敷き詰めたそうめん状の敷料の感触。

 年月が書かれていないこの荷札には「デカルブひな」とありますので、ブロイラーをやり始める1960年代前半のものでしょうね。

 ご丁寧にもパウチして、こないだまで技能実習生寮の鍵に使われていたようです。 
 

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 現社屋へ引越して11年。

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 旧本社、旧旧本社社屋と、隣接する旧二戸工場、旧旧二戸工場、会長の新旧自宅など、会社の創業に関わる現場ツアーをやるようにと指示を出したところ、4回に分けて開催されました。その1回めをオブザーブ。

 参加者は、これら一連の建物があった「穴牛」に行ったことがない総合職、事務職約100人。

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 以上の写真は旧二戸工場です。現二戸工場が平成4年(1992年)に移転してから資材置き場として一時使っておりましたが、それ以降そのままの状態でしたし、今後解体する可能性もあることですし、ちょうどいいタイミングだったかな。

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 まずは旧工場の従業員休憩室のうちの一室である「川又ルーム」に集合。

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 昔の製品箱はこんなでした。JUBROというブランドネームだったんですね。

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 それから、デジカメなき時代の生写真を閲覧。

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 旧二戸工場の工場長だった佐藤専務が思い出しながら解説。

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 その脇には、今回のツアーのサポート役の清和常務、千葉部長補佐。みな30年選手です。

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 22年前に引っ越したので、その時の最後の集合写真ですね。私も後ろに写ってました。

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 パワーポイントの説明を聞いたあと、工場を回ってみました。出荷口周辺です。
 
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 そして、5分ほど歩いて会長宅そばの旧旧二戸工場の跡地へ。会長が出てきて解説しました。

 私の子供の頃の記憶と少し違うところがあったりしますが、ご愛嬌(笑)。

 内外の観光地を歩くほど華やかなものはありませんが、皆さんの勤める会社のルーツに少しでも思いを馳せ、先輩たちに感謝しながら仕事していただければと願っております。
 

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 この秋の部門合宿で、社長の時間(通常90〜120分)に何をやろうかと考えた末、会長である父がこの5月27日に80歳を迎えたこともありますし、来年は創立55周年にもあたるので、会長を呼んで会社の歴史に焦点を当てる時間にすることになりました。

 そのテキストは写真の創立40周年記念誌です。若い社員たちにもこれを渡して読んでもらって、更に旧本社・旧二戸工場に足を踏み入れてもらってから合宿の時間を迎える段取りとしました。

 ところで、50周年感謝祭の時に気になっていたのは、会長が何度も口にしていた「鶏を飼い始めたのは16歳からだからホントは60年‥」というセリフ。

 「おいおい、カウントの起点を決めたのは会長自身でしょ!」と言いたいところでしたが、そこはお祝いの場。心の奥底に閉まっておいたのですが、いいことを思いつきましいた。

 これまでは「創立」ということで、会長の思いで、人を雇い始めた昭和35年を起点としていたのですが、これからは「創業」ということで、鶏を飼い始めた昭和25年を起点にしてもいいんじゃないかと‥。

 というわけで来年は創立55周年であり、創業65周年でもあります。

 これで創業100周年を私が生きているうちに迎える可能性がかなり出てきたかな。我ながらナイス(笑)。

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 どの業界でもそうなのでしょうが、当業界も大手の寡占化が進んでいます。特に上位5県である鹿児島、宮崎、岩手、青森、北海道が伸ばしていると言えます。

 養鶏は大都市近郊で当初発達しましたが、今では都会ではあまり歓迎されませんので、自然と日本列島の南北の端に移っていると言っていいでしょう。

 当社もその主産地の一員としてライバル会社に負けじと増やしております。そして来年度の計画ではやっと当面の目標にしていた5,000万羽の生産が達成できそうです。

 ではこれまでどういう数量の増え方だったのか。昔のデータが見つからないので、分かる範囲で500万羽毎に振り返ってみました。

 1500万羽 1984年 
 2000万羽 1987年
 2500万羽 1990年 岩手農協チキンフーズ株式会社 県央工場完成
 3000万羽 1991年 
 3500万羽 2004年
 4000万羽 2005年
 4500万羽 2010年
 5000万羽 2014年 予定

 30年で3倍以上ですね。ちなみに社名別で瞬間的に業界ナンバーワンの羽数になったこともありましたが、その後、他社さんが伸びて当社は3番目となっております。

 そりゃあナンバーワンに成りたいですが、人口減の時代に無闇に新規投資するわけにもいかず、鶏舎の老朽化もありますし、できる範囲のことをやって様子を伺っているといったところ。

 でも、上位5県の中でもかなり恵まれた環境でやれていると思っております。

(写真:11月3日新農場の地鎮祭にて)
 

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 昨日は某飼料会社さんのH工場長のお誘いでゴルフをして、そのまま八戸にて食事会となりました。食事は何がいいですかと聞かれたので、「イタリアンかフランスがいい」と言いましたら、「KAZU」というイタリアンの店に決定。他のメンバーにも「たまにはいいですね」と喜んでもらいました。いつも和食系ですからね。実際リーズナブルな価格でおいしかったです。4人でワイン4本飲んで2万円と少々。

 一緒にゴルフをしたほかの2人の畜産業界人も2代目。初めてご一緒した人もいましたので、先代の創業のころの話で盛り上がりました。「当社だって元々はレイヤー(採卵養鶏)をやってたんだよ」と言えるし、養豚業界の知り合いも徐々に拡大してきつつあるので。

 もしかして「畜産業界の中心にいるのは我がチキン業界なのかな」と会話していて思いました。育種改良のスピードが速い。変化が激しい。隣の業界人が参考にして業界内他社と差別化している。

 当社の業界内の位置づけがどの辺りにあるのか、と同時に、当業界は畜産業界でどういう位置づけなのか、外部の意見は貴重です。そっち方面のゴルフが増えるかも(笑)。

(写真:飲みすぎた訳ではないのですが、なぜか寝付けず時計は午前4時過ぎに)

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 昨夜、(有)土橋ブロイラーの創業者、土橋喜一氏の通夜に参列してきました。享年87歳。80歳を過ぎてもクラウンを時々運転する姿を見かけてお元気で何よりと思っておりましたが、残念です。

 土橋喜一さんは、私の父の始めたブロイラー事業の、今風に言えばフランチャイズ農場として働いていただいていたのですが、後に独立して工場を構え発展された方です。

 その後、確か私が社長になる前に、八戸の第一ブロイラーさんの系列に組み込まれましたので、社名に名前を残しながらも悠々自適の晩年を送られていたと思います。

 そういう間柄だったので、ひっそりとした集落のお寺での通夜が終わってから、ご親族の方々からご丁寧に挨拶いただき、昔話を聞いて、昨今のビジネスの喧騒とはかけ離れた、いわば「家業」みたいなものを実感しながら帰ってきました。

 そういえば、私自身も今から29年前の大学1年の夏に、土橋ブロイラーさんの工場で1週間働かせてもらった経験があります。役に立たなかったはずなのに、ちゃんとアルバイト代も頂戴したんでしたっけ。

 ご冥福をお祈りします。

(写真:佐渡汽船「おけさ丸」からの眺め)

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 宮尾すすむさんが亡くなられたとのニュースがありました。享年77歳だそうで、ちょうど私の父と同世代だったんですね。

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 というのも、宮尾さんの有名な番組「ああ日本の社長」で1999年3月10日に、当時の社長である父、十文字健助を取り上げて放映して頂いたのでした。その20分ほどのビデオを久しぶりに見てみましたので今回はそれを紹介しますね。

 
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 始まりは孵卵場からです。今では鳥インフルエンザ等の防疫上の理由から、テレビのクルーも入れないわけですが、当時はこうしてシャワーを浴びて宮尾さんもカメラマンの方もディレクターも入って行きました。あ、これは私の背中です。

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 孵卵場について質問され、父はだいぶ緊張して対応しています。
 
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 孵卵器に卵を18日間入れて置いた後、生きていない卵を取り除き、発生器に移して3日間で孵化します。

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 昔は当社のインテグレーションの流れを見てもらうのに、孵卵場は生命の誕生ということで、積極的に見てもらっていたのですが、今は残念ながらビデオで観てもらうようにしています。

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 羽で選別をする方法の解説や、ワクチン摂取のこともたっぷり紹介していただきました。

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 飼育農場についても、今では考えられませんがテレビクルーが行って撮影していただきました。

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 とうもろこし中心の飼料で育てられた菜彩鶏のPRもしっかり入っています。

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 そして十文字グループの工場として、岩手農協チキンフーズ株式会社 県央工場へ。撮影は2月の寒い日でした。宮尾さんも父も上着なしで写っております。父は冬は常に厚い肌着を着ていますから大丈夫でしたが‥。

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 たくさんの社員がスピーディーに働いていることに宮尾さんも驚いていました。
 
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 また、パートやアルバイトというのではなくて、全員が正社員という形になっていることを驚いているようでした。

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 県央工場には食品センターという加工場がありまして、そちらも案内。

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 宮尾さんには、ベルトフリーザーに入る前の、熱々の唐揚げをつまんで食べて臨場感を演出していただきました。

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 シナリオにはなかったのですが、突然私に宮尾さんが「どんなお父さんですか?」と振ってきました。私の答えは「くどいです」。ははは、分かってないな〜! 社長はくどくなきゃ仕事に成らないでしょ、と今は思います。

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 今は亡き、地元のハーブレストランMIMIの荒谷シェフが作ってくれた菜彩鶏のメニュー。一つ目は「菜彩鶏のトマト煮込み」 うーん、懐かしい。

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 この「ああ日本の社長」はテレビ朝日系の「モーニングショー」という番組のひとつのコーナーだったので、料理方法も紹介。

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 あの荒谷シェフの味を、誰か復活してくれませんかね?

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 もうこの「菜彩鶏のソテー香草風味」なんて何回食べたんだか。そうだ、家内が確かこれだけは教えてもらったはず。何とか作ってもらおう。

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 実は父は料理は全然しない人です。そういう意味では人のことは言えないけど、父は関心さえ無い(笑)。ま、商品としてのフレッシュ鶏肉にはもちろんうるさくて、そのおかげで頑なに機会化を進めなかったのです。
 
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 これは正確には新婚当時の写真ですね。

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 この取材当時は年間3800万羽という紹介になっておりました。それから10年経って2割増程度。

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 番組の後半は、社長の自宅訪問。私が大学生として東京に住んでいたときにやっと建った家なので、私には縁が殆ど無かった家です。

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 ベンツSL500、BMW735i、スバルアルシオーネと父の車が充実していた頃ですね。

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 母も出演。取材日までの家の中を整理整頓、掃除するのに大変だったはずです。

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 それまでこの番組を見ていたわけじゃないので知らなかったのですが、マスクメロンを冷蔵庫に用意しておくのが通例だと聞かされ、用意しました。

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 2人のなれそめ等を聞かされ、私も知らなかったので助かりました。

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 最後に抱負を聞かれ「日本一を目指す」 ということでエンディング。岩手山を背景にやりましょうと宮尾さんの提案だったような気がします。

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 スタジオの締めは「よき環境は、よき人材を育て、よき事業を育てる」という宮尾さんのお言葉でした。

 当社を取り上げていただいてしばらくしてこの看板番組は終了し、宮尾さんもあまりテレビに出なくなったので、引退されたのかなと思っておりましたが、お体のことで苦労されていたのですね。ご冥福をお祈りします。
 



 50周年記念感謝祭に併せて製作したスライドによるビデオ「十文字健助、創業の物語」ですが、このほど著作権の関係の整理がつき、YouTubeにアップしました。

 私からあれこれ指示して社内で作ってもらったのですが、イメージしていたのを遥かに超える良い出来になっております。どうぞ御覧ください。

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 昨日は二戸市役所に小保内(おぼない)市長を訪ね、寄付金の贈呈をしてまいりました。これが6市町村最後となりました。

 寄付金の用途については、どちらの市町村にも「景観整備に使っていただければと思っております。当社のお客様もですが、この地域を訪れる方々に好きになってもらいたい。そのためにはまずは眼に入るものを整備していただければと思っております。」と話してまいりました。

 さて、二戸市に当社関連としては、60人ほどが働いている本社、250人ほどの二戸工場、10ヶ所の生産農場、2ヶ所の鶏糞処理場があります。

 もともと創業した土地ですが、だからか、古い農場が多くて、規模も比較的小さめ。鶏舎の坪数では全体の5%にしかなりません。そして、これからもなかなか二戸市内には鶏舎を建てられそうにないかな‥。

 それだけ二戸市も都会になった印象ですね。

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 一戸町に住んでおりました作家、三浦哲郎(てつお)さんが79歳で8月29日にお亡くなりになりました。

 処女作「忍ぶ川」で芥川賞を受賞し、座敷童子(ざしきわらし)が出る金田一温泉を舞台にした「ユタと不思議な仲間たち」は劇団四季のロングランミュージカルになっているという著名な作家です。

 その三浦さんの短編で「出刃」という、ブロイラー工場に勤める母をめぐる息子(与五)の心情を描いた作品があり、「木馬の騎手」という単行本(1979年発刊)に収められております。ちょっとだけ引用させていただきます。

 いまから五,六年前までは、与五のところでも鶏を二〇羽ほど飼っていて、与五はよく母親と一緒に産みたての卵を手籠に入れて、村はずれの通称十文字という養鶏場まで買い取ってもらいに通ったものであった。十文字では、村から買い集めた卵と自分のところの卵を一緒にして、町のマーケットや食料品屋に卸していた。

 いまはもう、鶏など一羽もいないが、それは十文字が、もっぱら卵をとっていた養鶏場を卵よりもっと儲かるブロイラーの飼育場に切り替えたからで、新しくブロック塀で囲まれた十文字の裏庭には、スレート屋根の建物や暖房の煙突が聳(そび)えたりして、以前の養鶏場の面影がすっかりなくなっている。

 
いや、本当にリアルに創業期当時の様子を解説していただいております。父と3歳違いだし、お目にかかったことがあるんでしょうね?

 ご冥福をお祈りいたします。

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 先週の21日(火)には盛岡市内での出前授業のあと、寄付金の挨拶のため八幡平市役所を訪問し、田村市長に対応いただきました。

 八幡平市には、農場が18ヶ所あり、これは市町村別では4番目の規模になります。

 また、500人が働く岩手農協チキンフーズ(株)県央工場があります。

 この工場は平成2年に、それまで百数十人が働いていた工場の隣に当時業界でも有数の規模の工場を建てたのですが、時はバブル。

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 人が集まらなきゃどうにもならない!ということで、広告代理店に気合の入ったチラシ(写真)を作ってもらい、会社説明会は盛岡市内ホテルで何度も開催して200名余りを追加採用していったのでした。

 そして、二戸とも久慈とも違う地域性に戸惑いながらも、会社の行事を重ねるたびに理解できていった記憶があります。

 当社の中では中央からの交通の便がよく、加熱加工までやっている工場ということで、シーズンでは見学者数が圧倒的に多い工場になっております。

 小山昇さんに「私が見た中では日本一」と言わしめたのが、私には誇りになっています。

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 昨日、軽米町役場に山本町長を訪ね、50周年の寄付金の贈呈を行ってまいりました。

 当社関連の施設は、生産農場が24ヶ所(市町村別では3位)、種鶏場が5ヵ所、鶏糞工場が2ヶ所、そして岩手農協チキンフーズ県北工場があります。これらの施設で従業者数は300人を超えるようです。

 子供の頃、父が農場を作り始めてまだ数カ所というときに、小学生だった私は助手席に乗せられてあちこち行ったのですが、軽米町の小沢農場に一歳上の男の子がいてよく遊んでもらいました。

 2人とも車が大好きで遊んでいても楽しかったのですが、山を超えて隣町なのにこうも言葉が違うのかと驚いていた記憶があります。あそこのことを「あっこ」、自分のことは「わー」でしたね。

 社会に出てから、会う人会う人、軽米町の人はすごく明るくて人懐っこくて、独特のカラーがあるように感じますね。八戸に近いからかな?

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 1993年にデビューしたみちのく赤鶏。昨日が最終の出荷になりました。
 
 元気で人なつっこい、全身がまさに褐色の、フランス産「ハバードレッドブロ」という鶏種を使った鶏でした。

 抗生物質・合成抗菌剤を使用せずに、長期間かけて飼育した「みちのく赤鶏」は、根強いファンを獲得していたと思うのですが、時代が時代ですし、こういうマーケットは他社さんにお任せした方が良いとの判断です。

 とは言え、周囲の同業者もここ10年ほどで相次いで撤退していた鶏種でしたから、日本のマーケットの付加価値商品のボリュームゾーンは、もう少し下にあるという事ではないでしょうか。

 これまでにご愛顧頂きましたお客様には感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

(写真:関係ないですが、2月のある日、二戸市民文化会館の休憩スペースにコタツを発見!)

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 確定申告のための古い書類を探すのに、母にもお願いしましたら、「こういうのは家では要らないので‥」と言ってよこしてくれたのは、平成4年から7年頃の社内報。

 そのころ私は取締役企画室長で、直属の部下が1人おりまして、彼女は社内報作成がメインの業務になっておりました。

 隔週作成で、コピー機で十数部作成して、各事業書に送って管理職・事務職に回覧してもらっておりました。

 それ以前はこういうものが無くて、12月決算と言うこともあり年初に1年を総括して、社員全員にB4で1枚配布していた程度でした。

 いまは、年に1回の全社員向けのペーパーが、社内報として年4回。そして、管理職・事務職向けの情報は日々ジュネット(サイボウズ・ガルーン)と社内ブログが担っているという状況ですね。

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 宮崎に来ています。昨日は取引先のお二人と当社会長と私で、中華料理店で丸テーブルを囲んで楽しい時間をすごしました。

 取引先のS部長が、当社会長の創業当時の話を引き出してくれて、知らなかったことが出てきましたので、ここに書きとめておきたいと思います。

 セミブロイラーとは、ブロイラーのオスと、採卵鶏のメスを掛け合わせたもので、米国の肉専用種であるブロイラーを導入する直前の過渡的な取り組みだったそうで、抜きオス(採卵鶏の血筋で運悪く生まれてきたオス)の後に取り組んだのだそう。へえー、そんなのあったんだ。

 また、その頃はえらい儲かったそうで、抜きオスをダットサントラック一台運んでいくと50万円の利益になったそうで、その利益率は60%!

 黎明期にいち早く取り組んだ父ならではの話はなかなか痛快です。

(写真:久慈工場の新年会で引退間際の名物社員を水戸黄門に仕立てての寸劇=社員撮影 中央左は私)

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 社名変更とシンボルマーク制定などを総称してCI(コーポレートアイデンティティ)と言ったのは過去の話で、もう死語になりつつありますね。当社もそのトレンドに乗って実施した会社の一つで、既に18年が経過しています。

 白・黒・赤の3色を使ったマークとなっておりますが、白地に黒1色の印刷ならとさかの赤は下地と同じ白にするとか、ウインドーサインは赤だけにするとか、あれこれルールを決めたマニュアルまで作成してあるのですが、当社のシンボルマークは、気が付くとあちこちでルールを逸脱した例が出てくる難しいマークでもあります。

 違和感のある使い方が起きないように、今は私に確認してもらうことにしているのですが、看板の施工の段階でおかしくなったりとか、きれいに揃えるのは本当に根気が要ります。

 間違いに気づいたら徹底して直させること自体が社員教育になると思ってはいるのですが、費用対効果があまりに劣るので「もういい」としてしまうことも正直有ります。

 私のマークに対する精度の要求レベルをパーフェクトに実現してくれる社員が出てきてくれないかな‥。

(写真:旧山形孵卵場のウインドーサインは赤が飛んで白に。また社名変更で変更した部分だけが削除されていました。ハハハ、もう新しくなったからいいか!)

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 商工中金さんを通じて、財団法人商工総合研究所から春先に原稿依頼が来まして、「チキン業界とその盛んな地域」と題して、当業界のことを書きましたが、このほど届きました。

 せっかくなので、今日はそれをそのまま載せたいと思います。


  チキンとは、ブロイラーのことであり、業界内では食鳥と呼んでいます。食鳥業界と書くのが普通ですが、啓家の意味を込めて私は「チキン」を積極的に使っています。

 さて、テキン業界の始まりは戦後です。それ以前は採卵用で年をとって卵を生まなくなったメスが鶏肉として消費されていました。戦後アメリカ人がこれでは硬くて食べられないというので、採卵用で生まれてしまったォスの肉用の飼育が始まり、まもなくして昭和30年代にアメリカから肉専用種の通称ブロイラーが導入され普及し出します。

 商社や地場の穀物問屋にとっては、飼料の供給先として将来性があると言うことでチキン業界は急速に伸びていきます。その商社や地場の穀物問屋などが処理工場の建設に乗り出すことも多かったようです。また、農協でも進出するところが出てきました。

 ちなみに当社は地場資本ではありますが、農家からのスタートということで非常に珍しい例です。父は農家の後継者という立場で、どの作物がよいか探っていた頃に、講演会を聴いてチキンの将来性に気づき、中学校卒業以来飼育していた鶏でしたが、祖父の反対を押し切つてリンゴ畑の木を切って本格的な鶏舎を建設して始めたのだそうです。

 このころは、全都道府県あまねくブロイラー養鶏家が誕生したと言って良いはずですが、今は上位から順に言いますと、鹿児島県、宮崎県、岩手県の3県で53%のシェア。青森県、北海道が4位、5位に名を連ね、日本列島の南北の両端が担う比率が高くなっています。といいますのも、畜産は他に柱になる産業のない県で盛んになるという傾向があり、これは、この産業が特に平坦な土地を必要とせず、山間部など住宅から離れた所で飼育するのが適しているということから来るものでしょう。

 当社が展開するエリア、岩手県北はまさしくそういう地域であり、近くの八戸市に飼料コンビナートがあり、アメリカからの穀物原料が巨大なタンカーで運ばれてくるという量のメリットを享受できてぃます。また、チキンは小動物であり、肉にするのにたくさんの人手がかかります。公共事業が激減した今、建設業が雇用需要を吸収できなくなって、地元では当業界への期待はますます大きくなっています。

 さて、チキン産業は日本の戦後と共に始まり、今に至っています。30年代に興り、40年代に高度成長、50年代にはピークに達し頭打ち。バブル期には、当社はブラジルに進出し、まもなく撤退すると言ったことを経験しました。その後の失われた10年はチキン業界にとっては輸入品に苦しめられた時期です。それを脱したのがちょうど小泉改革の頃でしょうか。

 ここのところの食品の安全への意識の高まりから、当業界には追い風が吹いているとも言えるのですが、日本の人口は減少に転じております。他国に比べてチキンの国民一人当たりの消費はまだまだ伸びる余地があると思うのですが、まだ日本の消費者は「ヘルシー」より「美味しい」のほうに重点が置かれているように見えます。アメリカでは既にビーフの消費量をチキンが抜いて久しく、今では世界の肉の消費量の伸びの大半がチキンだと言われておりますので、国内のチキンマーケットは未だ開発途上と言えるわけで、46才の経営者の私としてはこれからどういうことが起こってくるのか楽しみにしています。

 しかし、鳥インフルエンザや飼料穀物の国際市況の乱高下といった問題で、不安定な時代を迎えております。自動車の世界では、GMやクライスラーの経営危機が言われておりますが、チキン業界では昨年世界一の企業が債務不履行状態になりました。鶏が3歩歩けば忘れるように、経営者として過去の栄光はすぐ忘れるようでありたいと思っております。

 私は入社して24年目ですが、この間に当社は3倍近くの羽数になり、国内生産シェアも2%から7%になりました。現場感覚を大切に、良い仕事をしてきたからだろうと思っております。岩手人はきまじめだと言われますが、だからこそ首都圏のお客様に支持を頂いて、今の当社があるわけで、今後も地元の人の良さを伸ばして、良い仕事をして、「リンゴと言えば青森、チキンといえば岩手」と言われるようになりたいと思っております。

 目指すは日本一。人と地域の替在能力を引き出すことを念頭に、社員と共にこれからも頑張っていきたいと思っております。

(写真:先日の横浜山下公園で撮影)

3c13a0c1.JPG  取引先のお誘いで、ブラジルのサンパウロに来ています。

 私にとっては6回目。厚生省の調査に同行して大名行列した11年前以来です。その前は、ミナスジェライス州パッソス市にフランゴ・メヌー(Frango Menu Brasil Ltda.)という会社を総合商社のトーメン(現豊田通商)とやっていたので何度か来ております。

 フランゴ・メヌーはヨルダン人の資産家が奥様の出身地のパッソス市に恩返しをする形で作られた会社でしたが、当時ブラジルチキン産業の極度の不振で売り物に出されており、規模も手ごろということで父とトーメンの判断で購入に至ったのでした。

 そのころ、親戚筋でブラジルに渡っていた家族を尋ね、大学をちょうど終え日系企業に就職が決まっていたN君にこのプロジェクトに入らないかと父が誘ったところ快諾。

 N君は、日本の当社のやり方を学ぶということで我が家に寝泊りした弟ともいえる間柄です。

 昔のメールアドレスや住所では連絡がつかなくなり、親戚筋にお願いして何とか連絡が取れ、昨日晴れてご対面!

 あれこれ話は尽きなかったですが、私が風邪で熱があったので、家族を拝見し、お昼ごはんをご馳走になり、プールもジムもあるというマンションのシステムを案内してもらって、ホテルに戻って眠りました。

 ちなみに熱は出発直前の22日朝からで、病院でインフルエンザの検査をしましたが陰性でした。ただ、頭がボーっとしていたせいか、デジカメのバッテリーチャージャーを同じパナソニックの違う機種のを持ってきてしまいました。もう、半分ないしヤバイ〜!

大崩崖の紅葉

 10月18日〜19日の県北工場の合宿は、二戸市内の金田一温泉の「割烹旅館おぼない」で開催されました。

 「おぼない」と言えば、私が小学校3年生前後の35年ほど前には、毎年確か12月28日に会社の忘年会をやっていて、一度そこに連れて行かれ、酔っぱらいに混じって非常に困惑した時間を過ごした記憶があります。

 そんな話を宴会のスピーチでした後、場はどんどん盛り上がっていくのですが、禁煙と言うことで、帳場の近くまでタバコを吸いに行く人たちが戻ってきて、「おかみさんに昔話されたよ!ずっと昔に、会長が自転車で鶏肉をここまで(約8km)売りに来てたんだよ、だって」

 へえ、そうだったのか!そういえば、92歳になる祖母(なぜか私の名前の一部であるスヲという名前)は猫車で市内(当時は福岡町)を売り歩いたということを思い出しました。

 そのころは大家族だったので叔父・叔母たちも、近くの親戚も手伝ってくれたりしたわけで、忘れがちですが覚えておかなきゃ‥。

(写真:二戸市内の大崩崖)

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 ハガキを書こうと、未使用の絵はがきの入ったボックスを見てましたら、社名を(有)十文字養鶏から(株)十文字チキンカンパニーに変更する直前の年賀状が出てきました。

 1991年ですから、17年ほど前に作られたものです。CIを盛岡の広告会社さんと推進している中で、年賀状も前年は地元の印刷屋さんの見本の域を出ていなかったのに、こんな風に楽しい雰囲気に。

 そして、元旦と4月1日には、地元の岩手日報に、この乗りで全面広告を出して派手に存在を誇示しました。

 このハガキの文章にありますように、社名募集をして、社内外から764通の応募をいただきました。その中から、広告会社さんが選んで強く押したのが「十文字チキンカンパニー」でした。

 ちょっと長いので躊躇しましたが、今となってはすっかり定着しました。

 でも欲張りなのか、社名についても、マークについても、もっと良くならないものかと、日頃から考えています。

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