
当社の本社の住所のいわれを、好奇心旺盛な若手社員が調べてくれました。以下、S常務が所有する「二戸市の地名」という本からの出典です。
【石切所】
朝日観音を拝すこの地は、石処(いしどころ)であり、永世8年(1512)頃、観光上人が「魏処寺(いしきでら)」と名付けたという。江戸時代には石工、石臼の産地として知られていた。盛岡築城に活躍した石工たちが藩主より賜った地名であるともいい、上里・奥山地区民のほとんどが石工を副業にしていたらしい。
【火行塚】
「昔、難所では火を焚いて旅人の難を救ったことからその地を火行という。」との語り伝えがある。また松明(たいまつ)を「火炬(ひきょ)」ともいい、この火炬の転ではないか。
さらに「日向」の転訛で向陽地、「修行」の転訛で遊行の修行僧に関係があるという説もある。
嘉歴の碑(1327)の由来や、むかしこの近くに寺院があったらしく、付近に寺久保の地名も残っていることから、この説も一考の余地がありそうである。
【穴牛】(※以前の本社所在地=私の生まれ育ったところ)
古称「アヌシ」は、アイヌ語のなごりという。語源は「アナベ・ウシ」で「我らの食べ物の多い所」といい、古代には獲物の豊かなところであったろうか。
また、言い伝えには、穴牛には九戸城の「牢」があった。後に家が増えて集落をなした時、「牢」の文字を二分して穴牛としたという。
しかし、牢は「籠(ろう)」の当て字にもなり、「籠」は閉じこめる意があり、馬の飼育場を「籠場」と言った。穴牛に籠があったということから馬の飼育場があったことも考えられる。
さらに一説、福岡城(当市内)に石垣を築いた石工穴太衆のなごりで穴太師(あのうし)が転訛したとも言われ、諸説ある。
この地に今淵将監の采地(知行所)もあった。猫渕川のほとりには福岡城主家直の母三代殿(みよどの)(1634死去)の供養塔があり、御明堂又は姫五輪と呼ばれている。
また、山林に高野山の3人の僧侶が当地に流謫(るたく)されたときのものといわれる五輪塔があり、他に、つつみ清水・権現様・かつらの巨木等を見ることができる。
〜以上で引用終わり〜
私の祖先は罪人なのでしょうか?父の言うように、武士の馬を管理す百姓だったのでしょうか?
(写真:本社から見える奥山地区のお墓=写真をクリックすると見えます、かすかに!)